〈エッセイ〉
      「怒ることと叱ること」
                  高橋 勝

 1月8日付『朝日新聞DIGITAL』のネット配信に、「湘南ゼミナールに是正勧告 授業時間以外の賃金未払い」なる記事が掲載された。かつて教職に就き、退職後も論作文添削講師として業務に携わっている私にとっても、身につまされる内容であった。
 記事には、賃金未払いなどの違法行為があったとして、関東で個別指導塾を運営する湘南ゼミナール(横浜市)に対して、神奈川県労働局相模原労働基準監督署が昨年末に是正勧告をしていたことが分かり、会社側と団体交渉中の労働組合『個別指導ユニオン』が8日、発表したとある。さらに、同ユニオンによると、湘南ゼミナールは某塾でアルバイト講師として働く大学1年生(19)に対し、授業1コマ(80分)あたり1,500円を賃金として払っていたが、授業の準備や会議などの時間には賃金を払わず、昨年6~11月分の未払い賃金として計約22万円の支払いを同労基署が勧告していると続け、最後に、学習塾業界では、授業時間しか賃金が出ない「コマ給」という慣行があり、授業の準備などの時間がただ働きとなる問題が広がっている、と当新聞社によるコメントで結んでいる。他の関連ネット記事を当たってみると、学習塾ではこうして訴えられるケースが多く、講師の大学生などから「ブラックバイト」だとの批判が出ており、厚生労働省も昨年の春、業界に改善を要請したとのことである。
 昨年、テレビで「授業時間以外の賃金未払い」のニュースにはじめて接したとき、原告のあり方に対しどこか違和感を覚えたのを思い出すのだが、それは、今回、当の労働基準監督署が、主張された時給契約と同等の権利を認めてしまったのを素直には受け取れない今の思いに通じるものである。しかし、いずれにしても新聞記事に出ている若者の訴えをいかに捉えたらよいのか、少しばかり探ってみたい。
 記載されているように、塾の講師は授業だけやっていれば済むというようなものではない。いくら頑張って教えていても相手の児童生徒がついてこなければ講師の役割を果たしたとは言えない。そこで、授業前の教科準備、休み時間での話し相手、授業後のお見送りから報告書作成まで、いかにしたら良好な関係が築けるのかと悩まされることになる。ところが、一向に生徒との関係が改善しないまま、自分に課せられたノルマの他に、こうした「サービス」を報酬の伴わない単なる労働と捉えるならば実に大変なことで、相克できない不満は相乗効果によっていや増しに高まっていくだけである。あげくには、自身のやるせない思いを心の奥底からぶつけたくなるのも理解できるというものである。
 しかし、講師を一種の教師と見なすことができるなら、講師は子ども達と接する機会が得られ、多少なりとも教育的な影響を与えられるのであり、そこにはすでに特権的な喜びが見出せるのである。一般に、学校の教師であれば、1単位(50分)の授業を受け持つのに、少なくてもその数倍の予習や研究に時間とエネルギーを費やすと考えられる。私もそうした「努力」を最後まで押し通したのだが、ただいつも先回りして準備しておくのが当然のことであり、習慣化していたので敢えてそのことを考えようともしなかった。また、現在の添削業務においても、その伎倆を身に付けるにはそれなりの実績や経験が求められ、定期的に変わる課題(テーマ)に対処する場合にも、自分のものにしておかなければならないとの思いのためには、事前の入念な研究が絶えず必要とされるのである。そのことを苦痛と思うのか、それとも自分のため答案執筆者のためになると思って真摯に取り組むのかの相違によって、雇用主や依頼者などの添削当事者としての私を見る目も変わってくるのは間違いないことであろう。
 かつて教師をしていた一時期、組合の強い学校に勤めていたことがある。職員の大部分が加入していて、管理職側と経営方針を巡ってことごとく対立していた。校務分掌を決める権限まで職員会議による民主的意志という形に引きずり下ろしていた。校長は一般職員の猛々しい声を無視しては何一つ執行できなかった。ここにくるまでには、学校内部での長期にわたる権力闘争があり、その結果として、労働条件や経営方針は組合の意向に沿ったものとして換えさせられてきたのだと想像される。しかしその代償として失われたものは余りにも多いと言えよう。第一に挙げられるのが、「信頼関係」である。生徒と教師、組合未加入者と組合員、管理職と組合員、保護者と担任、PTAや地域社会と学校、県の教育員会と学校の組合組織など、人と人、人と団体、団体と団体のことごとくの関係に不信感が渦巻いていく。このことは、その後、職員の強制異動があって学校の雰囲気も大部変わってきたと言われているが、そのとき現場で覚えた当事者の怨恨は永遠に拭い去れないものになっているのではないだろうか。
 現実問題として、こうした闘争を繰り広げれば、それに応じて関係者に対する雇用主側の扱いは顕著になってくる。民間企業であれば不景気の際にはいの一番に合理化の対象にされたり、公立学校であれば意に沿わない人事異動を仕掛けられたりする。そのような状況を観るにつけても、職場での権利闘争は決して人を幸せにするものとは考えられないのである。本気になって活動に取り組んだのは果たして誰のためだったのかと気づける人は、後に新たな道が拓けてくるのかも知れないが……。
 以上のことより言えるのは、今回の場合、講師として働いているにも拘わらず、支払われるべき賃金が支払われなかったり、労働時間が著しく超過していたり、それにも拘わらず残業代が全く支払われなかったりするなどあまりにもひどい状況に追い詰められていたのであれば、該当する部局に掛け合うことも考えられるだろう。しかし、そうでなく、多少の時間や仕事内容に対して報酬に見合わない偏りがあったとしても、とにかく通常に支払われているのであれば、そのことだけを問題にして争う手段には出ずに、たとえそうしたくなっても、そのようなときこそ物事を幅広く見るようにして対応すべきではないだろうか。つまり、あくまで自分の方ばかりに目を向けるのではなく、まずは雇用主側に目を据えて、その実情をしっかり検証すべきだろう。それでもどうにも我慢できないのであれば、運命とあきらめるべきだろう。そこで辞めて新たに他の仕事を探すか、それも難しいのであれば、その地に留まって耐え続け、頑張るしかない。そうして、その会社との巡り合わせを縁と捉え、運命共同体として、一所懸命に前を向いて働いていけばよいのである。そうしている限り、いつかそこに居られることの幸せに気づくことができるかもしれない。
 先日大学生の論作文を添削していたところ、気になる文章に出会った。怒ることと叱ることとの違いを知って、自分の生き方を変えられたというものである。なんだ、初歩的な思いに過ぎないじゃないかと言えば言えるが、このことは、今回の講師のあり方と同じ心的構造になっていることに気づかせてくれるのである。
――私は大学に入学してから現在に至るまで、個別指導の塾の講師をしている。全体指導と比較すると、個別指導では勉強が苦手である生徒や親に行けと言われたから仕方なく入塾した生徒が多い。なかには宿題を全くやってこない生徒もおり、新米であった私はそのような子に対していつも怒っていたが、彼らは変わらず宿題をやってこなかった。そこで、先輩の講師に相談したところ、「怒ると叱るは意味が全く異なる。相手の気持ちを考えるのが叱る、自分の気持ちしか考えないのが怒ることだ」ということを教えてもらった。そこで私は、宿題をやってこない生徒に対して、ただ単に怒るのではなく、なぜやってこなかったのか、どうしたらやってこられるようになるのかを一緒に考えるようにした。すると、徐々に彼らは宿題をやってくるようになった。」(H大、TK)