思い出の人々           
              早藤 貞二
 文芸評論家・饗庭孝男氏
 昨年(平成29年)3月20日の朝日新聞に、次のような記事が載っていた。

 饗庭孝男さん(あえばたかお=文芸評論家、青山学院大学名誉教授・仏文学)21日、肺炎で死去、87歳。葬儀は近親者で営まれた。
 日本や西欧の文化や芸術、思想などを幅広く研究、多数の著書がある。主な著書に、「石の思想」「幻想の都市」など。

 饗庭さんは、戦時中の今津中学校(彼は名古屋の西中学校2年から転校してきた)、戦後の高島高等学校での同級生である。
 私は、さっそく横浜市港北区仲手原にある彼の奥さんへのお悔やみの手紙を出した。
 すぐに返事がきた。

   ご丁寧なお手紙ありがとうございました。同封のカードは「お別れの会」の折り、ご参加の方々に「会葬御礼」の代わりにお渡ししたものです。ご覧いただければ幸いです。
 早藤様には、『故郷の廃家』執筆中、資料などお探しいただいたことを覚えております。生前は何かとありがとうございました。お健やかにお過ごしになられますよう祈ります。
       3月24日
                 饗庭 内
 早藤様

 饗庭さんは、幾度もフランスに行っているが、気に入った景色はカラーで写している。奥さんからいただいたのも、とってもきれいな写真で、裏側に「丘という丘に、淡い雲の影がゆっくり動いてゆく。<光>が交替して瞼の上を通っていった」と説明してある。そしてその右半分に、ご自分の感想が書かれている。

 さて、平成12年の夏頃だったと思うが、「新潮社」の前田速夫さんと饗庭さんとの間で、饗庭家の歴史を書くことになり、高島での案内を私に頼まれた。先ほど奥さんの手紙に書かれているのがこの事であった。
 あらかじめ、時間など聞いていたので、安曇川駅で落ち合った。ちょうど昼前だったので、駅前の食堂で食事をしながら、どういう順で、何を聞けばよいか等を話し合った。
 私たちは、駅前から、タクシーに乗り、最初、駅に一番近い私の実家へ行った。私の家は江戸の中頃から、膳所藩郷代官所になっていた。つまり膳所藩の飛地が高島には多くあり、藩の侍が直接高島まで来るのではなく、農民の代表が、地域の仕事(例えば年貢を納めさせるとか)をするのである。
 そういうわけで、私の家は、大きな門があり、屋敷は広い。兄はいくつかの資料を出しておいてくれた。私たちは、兄の説明を聞き質問もした。前田さんがその資料を写真に撮られた。(どこのお家でも同じようにされた)
 私たちは、庭を見たり、3つの蔵を眺めたり、表の花畑を見ながら、門の外へ出た。前田さんが、兄を中心に私たち二人の写真を撮ってくださった。
 次に行ったのは、孝男さんのお母さんのお家、横井家へ行った。丘に近い、田中神社の鳥居をくぐった右側の一軒家だ。私は、中学時代、祖母に言われて、この家のお爺さんが亡くなられた時、お悔やみに行ったことを思い出した。
 昔は醤油を作っておられたそうだ。。家の中は、広い部屋が幾つもあった。私たちは上がらせてもらった。おばあさんがおられ、孫の貫二さんもいた。彼は安曇川中学校で私が担任した生徒だ。つまり、孝男さんは、彼の叔父さんだ。なお、もう一人の叔父さんは、大津の膳所高の校長だった横井貫三先生で、私もお会いしたことがあり、子どもの頃、よくあなたの家へお使いに行った、とおっしゃっていた。
 さて、次は孝男さんの実家のある饗庭村(現新旭町)日爪(ひずめ)へ行った。大きな家だったが、村全体の大火に包まれ焼けてしまったという。今は、小さな家と蔵がある。庭は広い。
 坂を上がった所に、古いお寺「慈恩寺」があり、そこを訪れた。中には11世紀の作という薬師如来、阿弥陀如来像などがあった。それを見せてもらった後、竹藪の間の道を通って、饗庭家先祖のお墓参りをした。
 孝男さんのお父さん、お母さん、長兄、次兄の方がここに葬られているのだ。彼にとっては感慨無量であったに違いない。(なお、この墓場に、「饗庭東弥、饗庭つた」と、夫婦横並びに彫った珍しい墓石が目にとまった。これは、私の家の先代の長女つたさんが饗庭家の東弥さんに嫁入りし、後に二人とも亡くなられた後、息子さんが建てたのだろう。)
 さて、孝男さん兄弟は、お父さんを大変尊敬しておられた。(私の頂いた本の中に『帰去来―饗庭圭三の思い出』がある。)圭三とは、お父さんの名前である。
 お父さんの若い頃から、小学校の先生をしておられた。私の父も教師をしていたので、時々家へ来られ、談笑されていた。家の者は「圭さん、圭さん」と呼んで、大歓迎だった。
 お父さんは安曇(あど)の小学校へ来られたとき、先ほど書いた横井さんの長女ヒサさんと結婚された。そのときは、私の父と同様、広島高師に入られていた。
 そこを卒業されて、大津に住まわれた。そして昭和5年1月に孝男さんが生まれた。お父さんは、信楽の学校を振り出しに、彦根高等女学校、八幡商業高校を歴任された。孝男さんが小学校のとき、結核に冒されることになり、ご両親が心配して学校へ休学の手続きをされたそうだ。お父さんは本をたくさん持っておられたので、気分の良い時、彼は東西の文学全集は全部読んでしまったという。将来文芸評論家をやる素地が出来上がっていた、と私は思った。
 お父さんは人に頼まれて、昭和16年3月末に、名古屋市の市役所(課長、総務課長、栄図書館長)に勤められた。最初に書いたように孝男さんは、名古屋の中川中学校に入られた。
 さて、話を元に戻そう。私たちは、饗庭神社に行き、村役場(ここにも、資料は沢山あった)をまわり、今津の彼の親戚を訊ねた。明日は、彦根に行かれるということで、私は、孝男さん、前田さんと別れて、家へ帰った。懐かしい旅だった。