おもんさんの甘酒
             角 千鶴

 東京の二〇一〇年は、日差しあふれる三が日で始まったが、寒に入ってさすがに厳しい寒さが続いている。数日前にいっせいに開き始めていた蝋梅(ろうばい)が、ふくよかな香を漂わせたまま、少しかじかんだような姿を見せている。
 からだの芯まで冷え切って外出から戻ると、私はコートも脱がずにキッチンに入った。こんな日は、きまって甘酒が恋しくなる。
 冬の初めに求めておいた甘酒を小鍋にうつして熱々になるのを待ち、厚手の湯呑みに注ぐ。それを両手で挟み、口元へ運ぶと独特の甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。熱い甘酒が喉を流れてゆくと、やがて指の先までぬくもりが伝わってようやく人心地がつく。
 甘酒は熱いのが身上で、ぬるいのはいただけない。とはいえ、冷たい甘酒となると話は別である。
 おもん小母さんの甘酒は、冷たかった。私が、生まれて初めて口にした甘酒であった。
 おもんさん なんと懐かしい響きだろう。
 第二次大戦中、母と当時小学生だった私は、ただ一人の知人を頼って信州飯田に疎開した。環境の変化についてゆけず病気ばかりしていた私のために、母は見知らぬ土地で食物の入手に奔走する毎日だった。
 おもんさんと知り合ったのは、母が牛乳を求めて飯田市郊外の小さな牧場をたずねたのがきっかけだった。おもんさんは、この牧場主の奥さんで、年は五十を二つ三つ過ぎていただろうか。 子どもの目にはかなり年配に見えたはずだが、清潔感の漂う色白のきれいな人というのが初対面の印象だった。
 黒い髪は引っ詰めにして、後ろで形よく丸めてあった。細身の体を、紺絣(かすり)のもんぺの上下できりりと包み、 衿元(えりもと)からは真っ白な半衿がのぞいていた。それが、瓜実顔(うりざねがお)をいっそう白くひきたてていた。
 人あたりのいい、穏やかな人だったが、だからといって、東京もんの母を、初めから受け入れてくれたわけではなかった。
 諦めず、足しげく頼みに来る母に、次第に同情の気持ちがおきたのであろうが、どこか気の合うところもあったのだろう。いつの間にかお互いの心がふれあうようになり、以後、疎開者と地元の人という垣根を越えたつきあいが、東京へ引き上げるまで続いた。
 
 牧場主であるご主人は、おもんさんよりだいぶん年上のようだった。小柄だが肉づきのよい体格で、赤ら顔からお酒好きであることがひと目でわかった。気難しいところもあったが、おもんさんのとりなしか、いつしか私たち母娘(おやこ)は暖かく迎え入れられるようになっていた。
 牧場までは歩いて三十分ほどであった。目を瞑(つぶ)ると浮かぶのは、草を食む牛の姿ではなく、たびたび御馳走になったおもんさんの家の二階の座敷である。おもんさんの手料理をいただく私のようすを、ご主人は満足げに眺めながらゆっくりと徳利を傾けておられた。
 お礼を言って牧場を後にする私たちの後ろからご主人に気づかれないようにおもんさんは近づくと、私の手に 新聞紙の包みをそっとにぎらせる。中身は竹皮に包まれた牛肉だったり、チーズやお漬物のときもあった。
 あるとき、おもんさんが母に、
「私は後妻だからね」
 と、囁いたのを小耳に挟んだことがあった。
(ゴサイって何だろう?)と、私は思ったが、母には訊ねそびれた。ご主人に隠れるようにして包みをそっと手渡す仕草と、何か関係があるのだな、と私は考えていた。
 おもんさんは、料理が上手だった。中でも高さ三〇センチほどの杉の桶に漬け込んだ長菜(野沢菜より丈が短い)は絶品だった。
 そしてもう一つ、忘れられないのが甘酒だ。
 おもんさんの甘酒は、雪のように真っ白だった。おもんさんは、甘酒を薄めたり、あたためたりしなかった。どろりとした冷たい甘酒は、ガラスの器に入れられ、スプーンがそえられていた。 熱いこたつの中で食べる冷たい甘酒は、何年も口にしていないアイスクリームを思い出させた。その甘さは、眉間が痛くなるほどだった。
 おもんさんは、母におもん流の甘酒の作り方を伝授するとき、こんなことを言った。
「こうじの黴(かび)は気持ち悪いから、わしゃあ、洗ってから御飯に混ぜ込むことにしてるだに」
 こうじ黴は洗っても役をなすのかしらと、帰る道々母は訝っていた。白さの秘密はそれかしら、とも言っていた。
 俳句で甘酒の季語は夏である。昔の人は、夏の飲み物にしていたときく。
 私は空になった湯呑みを弄びながら、懐かしいおもんさんの冷たい甘酒にしばし思いを馳せていた。