音楽アレルギー
                   海老原英子


 四年生の担任の先生は、大学を卒業したばかりの小柄な教育熱心な女性教師だった。新潟女性特有の色の白い女性だった。
 学校は農家の子どもが多く、両親は勉強より家の手伝いをするようにしつけていたから、授業態度は悪く、学力も低かった。
 先生は少しでも生徒の実力をつけようと考えたらしく、授業前に算数の計算や漢字の書き取りのミニテストを行った。音楽のテストも、今までとは異なって、ピアノを弾く先生のそばで、一人で歌わなければならなかった。歌の題名は忘れたが、私は音楽が苦手だったので、緊張のあまり喉が締めつけられ、思うように声が出なくなった。順番を待つクラスメートの遠慮のない笑い声が聞こえて、焦れば焦るほど自分の意志とは別の音調になった。
 恥ずかしさで真っ赤になってうつむくと、目頭が熱くなって歌えなくなった。ピアノの音だけが、私を促すように最後まで響いていた。たまらなく長い時間に感じられた。
 この経験は私の心を深く傷つけ、音楽アレルギーの子どもにした。自分はだめな子どもだと劣等感をもってしまったのだ。
 落ち込む私に母は、「歌が上手に歌えなくても、あんたは走るのが速いからいいじゃないの」と、私の自慢の足を褒めて慰めてくれた。しかし、私は人前では決して歌わなくなった。
 私の音痴は親譲りのようだ。
 子どものころ、父がお客さんと酒を飲みながらいい気分で歌っていた地元の民謡『三階節』は、子どもの私にもわかるほど音程が外れていた。教師をしていたのだが生徒の前でも歌っていたのだろうか。
     いときからだれに教えられたのか、歌が上手で「ひばりちゃん」と、呼ばれるほどで村じゅうのアイドル的存在で、みんなに可愛がられていた。
 こんな家庭環境では、嫌な歌を強制的に歌わされることはなかったが、社会人になってからは苦労した。
 職場では、酒席で指名されて歌わなければならない宴会の雰囲気をこわしてしまい、それが後になって仕事のうえで差し支えることもあった。そんな体験を何度かしているので、始まる前にうまく立ち回って、酒もカラオケもできないと公言し、了解してもらわなければならなかった。
 なかには、「海老原を一度歌わせたい」と、酔った勢いで執拗にマイクを持たせる嫌な先輩もいた。私もときには流行の演歌を上手に歌って驚かせてやりたい、無理は承知で考えることもあった。歌のうまい人がうらやましい。
 我が家では、夫も三人の息子も歌が好きで、カラオケで歌って楽しんでいる。
 私も子育て中は、毎日、子守歌を歌って寝かしつけたり、保育園で習う童謡を子どもたちと一緒に踊りながら歌ったりもしていた。決して音痴がなおったわけではないが、必要に応じて自然にやっていたので、歌っているという意識もあまりなかった。
 子どもたちが小学生になったとき、相模原市の主催する越後湯沢での「市民スキー教室」に、参加したことがあった。

 私はバスの中で歌を指名されてしまった。いつもの調子で「音痴なので歌えません」と辞退しても、取り上げてもらえなかった。
 困っている母を見かねた三男が、助け舟を出してくれた。流行っている『電線音頭』を歌い、車内を盛り上げてくれたのだ。私は小学一年生の甘えん坊に、こんな才能があったのかと驚いた。子どもたちは、このとき初めて母の音痴を知ったようだ。
 私は教会で賛美歌を歌う。みんなで歌うので、音程が少し違ってもかき消されてしまうし、正しく歌うより心をこめて歌うことが大切なのだから、という理由であまり気にしないので声もでる。
 現在、毎週金曜日にホスピスでボランティアをしている。ここでは、昼食後、約三十分お楽しみ会を開催している。曜日によって俳句、押し花、絵画、書道など日替わりで患者さんを対象として行っている。
 皮肉なことに私の行っている金曜日は「みんなで歌いましょう」の会である。私でも大丈夫かと心配になったが、ボランティアを続ける以上やるしかない。
 ピアノは音楽教室をしている女性のボランテアが担当してくださる。患者さんの出席は三、四名で家族の方もいらっしゃるが、人数が少ないと寂しいのでボランティアの私たちも参加して十人前後になる。
 自分で歌えなくても看護士さんといっしょに来て、歌声を聴いて楽しんでおられる車椅子の男性や、移動式ベッドの女性の患者さんもおられる。
 次の週にはお会いできるかどうかわからないので、できるだけ患者さんの希望にそって音楽を聴いたり歌ったり、お話をしたりして、少しでも苦しみを忘れて普通の生活が味わえるようにサポートしたい、と考えている。
 私は、今ではすっかり開き直って、「おかしかったら遠慮なく笑ってね」と、大きな声で歌っている。