音楽の助力について考える
              柏木亜希

 音楽というもののルーツはいったいどこなのだろう。いや、言い換えるなら、なぜ神は音楽というものを創り、食べもののように人間に与えたのだろう。
 私がそう思うようになったのにはいくつかの訳がある。
 風邪の引きはじめで体がだるいときのことだ。熱っぽいから意気も消沈していた。そのときたまたま行きついた、携帯電話の動画サイトで讃美歌の『キリエ』を聴いた。イタリア語で修道士たちが、歌声でできた白い花をゆったりと静かに咲かせていくかのようだった。それは『調和』の体現そのものといってもよかった。ほんの二分ほどの短いチャント(唱和)であった。それを聴き終えると体の熱っぽさやだるさが、明確に楽になっていたのだった。不思議だったが、素直にこれが讃美歌の持つ薬効なのだと感じた。
 音楽は耳で聴くものだが、実はそれは振動として骨にも内臓にも響いており全身で感じ取っているものだ。しかし、それがなぜ体調に良い変化を起こすのか、その説明がむずかしいのだ。
 もう一つの不思議だと感じたものに、仏教のお経がある。私は特別何かを信じているわけではないのが、一年に一度、お盆に墓参するくらいである。墓地で行う供養の読経を聞き流していたときのことだ。私の両サイドに父と母が座って神妙なようすで頭を垂れてお経を全身で聴いているような気配がしたのだった。私は霊感などない。お経にそれほど親しみも感じていないのに、読経の間、両親の気配にはさまれている私がいたのだ。去年の読経のときも同じことが起きていて、しかもお盆の読経のとき以外では一度もそれはなかった。
 これはどうしたことだろう、と考えてみた。一つの考えは、素直にお盆だから……というシンプルかつ古典的な解釈だ。もうひとつは読経の音が、記憶をつかさどる脳の海馬に入ることにより、父母の気配を脳内でビデオのように再生した、という考えだ。味気ないが、そういうこともありえる。
 ではなぜ読経が脳にそうした影響を与えるのかということをかんがえねばならない、今思いおこしても、両親はありがたそうに頭を垂れていた。久しぶりに両親の気配を実感して、では死んだのは何だったのかと気が抜けてしまったものだ。音楽や歌や呪文といったものが、脳に思いや気持ちを再生する確かな力があることは事実であろう。私は読経の力でイメージや気配を再生されたのだと思うことにした。なるほど、玄奘三蔵がわざわざインドにまで経典を求めに行くわけだ。しかし、経はサンスクリット語に漢字をあてたものである。意味がわからないのに、なぜそれほど仏教に興味のない私に型通りの作用をしたのか。前述の讃美歌で体が少し楽になったのも、イタリア古語であり、内容を理解していたわけではない。とすると、人は、異国語であっても、歌や音楽に込められた祈りや思いをちゃんと再生し理解する能力を元々もっているのかもしれない。ことばにするとあっけないのだが、これはすごいことではあるまいか。

 これらのようなことがあってから、音楽について専門書を調べてみるとおもしろいことがわかった。
 リズムやテンポ、和音や転調の種類によって、人の感情を誘導することができるのだ、とある。また集団心理をコントロールするにも音楽は使われてきたとある。なぜなら、人は人と共に歌を歌うと一種の幸福を感じるホルモンが出るのだという。軍歌の行進曲、悲しみやおそれを勇気に変える歌や、苦しみを共に分かち合う曲、校歌なども共感を育む助けとなる。すべては曲の転調などで脳の中にイメージと心理を創造できるというのだ。
 また、人は自分の中の漠然とした思いを表現したいというときに歌や曲を聴いたり作り出すのであろう。
 人の心理や体調さえも一瞬一瞬に切り替えることが音楽を通じて可能ならば、普段の生活に上手に取り入れた方が良い。
 そんなことに気付いて以来、私は音楽やひとつひとつの音というものを注意するようになった。以前は神経質だと思ったバッハは、やはりたいへん緻密な音を精密に組み立てている。とても理性的な曲で聴いていると脳内の交通整理をしてもらっている気分になる。
 水琴窟の小さな音の響きも水滴の琴が静かに奏でているようでしばしうっとりする。
 そして、ある民謡歌手が野外で歌っている
動画を見ていて気づいたことがあった。そうか、歌は聴衆である人々と、大地や自然と共鳴するために歌われているのか、と。ともに共振することで互いに体全体、魂や心も使って音の会話をしているのだ。大地も空も歌を聴くに違いない。
 共振、調和。こうしたものは日々の生活の中でも自然と起こる。先ほど街を歩いていると、クリスマスシーズンのためとある店の前で、手回しストリートオルガンが響いていた。半音階の金属的な音が交じって高く鳴っている。『ラデツキー行進曲』だ。空気を押し出す音がするたびに鳴く、ストリートオルガンは、異世界のことばを話しているよう。甲高い音の波に、心の中の暗い思いが一気に押し流されていった。