お寿司とおにぎりと
                         早藤貞二


 「おじさん」と呼ぶ声に顔をあげると、事務所の戸口からK子の笑顔がのぞいていた。中学校の帰りらしく、鞄を肩に掛けていた。
「家庭科の実習でお寿司をつくったの、一つつまんで」
 K子は手にもった弁当箱のふたを開けて、私の前に差し出した。友だちのS子も、そばから笑顔をのぞかせていた。事務所の同僚がいっせいに振り向いた。
「やあ、おいしそうだな。それじゃ一つ」
 私は、かわいい弁当箱にきれいに並んだ小さめの巻き寿司を一つ手につまんだ。
 K子は弁当のふたをすると、にこっと笑い、二人して駆けて行ってしまった。
 私は二人の姿が並木の向こうへ見えなくなると、てのひらに残った巻き寿司を口の中にほおばった。いい味だった。今まで食べたものの中で、いちばんおいしかった。
 K子は中学二年生である。私が彼女を知ったのは昨年の秋のことであった。
 町の公園で、数人の女学生が側溝の「ごみさらい」をしていた。水が集まる角のところは、雨水がよどんで深く、女の子がくわで揚げても揚げても泥がつまり、難渋していた。
 そこへ、ちょうど通りかかった私が、手伝ってやった。
 仕事をしながら、女の子らはよくしゃべった。学校のことや先生のこと、友だちやお父さん、お母さんのことまで止めどがなかった。
 なかでもK子は愛くるしい顔をほころばせてよく働いていたので、私の印象に残った。
 こうして私たちは仲良しになり、道で出会うと、数人が駆け寄ってきて、いろんなことをしゃべって行った。
 K子が巻き寿司をくれた晩、私はなぜか、文集『原爆の子』に出ていた一少女の話を思い出していた。
 焼け野原になった地獄の谷間をぬけて、船で収容所の似の島へ避難していく母子があった。そのそばに、両眼を熱線で焼かれて見えなくなった少女が横たわっていた。少女は、
「おばさん、このおにぎり、おばさんの子にあげて」
 と言って、竹の皮の包みを差し出した。
「あなた、食べないの」
「私はだめなの。だから、おばさんの子にあげて」
 にぎりめしは、その朝、少女の母親が少女のためにこしらえたものであろう。母と子は泣きながら、竹の皮から一つ手に取って、分けて食べた。
 包帯で目をおおわれた少女は、うれしそうに母子の様子を見守っていた。
「がんばって生きましょうね。いい先生に診てもらって、きっとよくなるのよ」
 自分も半身焼けただれた母親が、少女の耳に口を寄せて励ました。母親の目からは、熱い涙が止めどなくあふれて、ほおを伝った。
 力なく少女はうなずくと、船べりに顔を伏せた。
 たしか、このような内容の文であった。悲しみと怒りをもってしか読めない手記ばかりが集められた『原爆の子』であるが、中でもこの少女のことを書いた作文は、私の心に残った。
 悲惨な戦争の中の少女の心持ちと、平和で豊かな現在に住んでいるK子の心持ちと、境遇には大きな違いがあっても、少女のやさしさという点では変わりはない。
 原爆にあった少女はどうなったか。多分、ほどなく息を引き取ったであろうが、そのやさしい気持ちがK子の中に今も生きて、引き継がれているに違いない。
 私は、K子が、そして世界じゅうのよき少年少女達が、核戦争の恐怖におののく世界にあっても、永久の平和を信じて、明るく、強く、美しく育っていってほしいと願わずにはいられない。
 私は『原爆の子』を読んでから、たびたび広島を訪れた。ささやかな新婚旅行も、広島、宮島の地をえらんだ。
 私がこの町に関心を持つもう一つの理由は、私が母のお腹の中で初めてこの世の空気を吸った所が広島であったということである。
 私の父母は、昭和の初めに結婚すると、間もなく広島で所帯を持った。しかし、二年ばかりで父の勤めがかわって、また滋賀県の片田舎に帰ってきた。私たちは原爆にあわずにすんで、いま私はこうして生きている。現代の世相が、昭和の初めごろとたいへんよく似ているという話を耳にするたびに、私は自分の中の広島を思い出す。
 広島の少女のおにぎりと、K子のくれたお寿司とが重なって、私には、それが貴い心の贈り物のように思えるのである。
    (『ひめすいれん』より)