パラダイスの子どもたち 
              柏木亜希

 私は眠りが浅いので、一、二時間おきに目が覚めてしまう。当然しっかり眠れないため朝起きてもだるい。どうしたものかと、いろいろ試した。
 何かで、目を閉じているだけでも外界の刺激が遮断されるので脳が休まるのだ、と読んだことがある。また夜泣きする子にアイマスクが効果あるとも。よし、ものは試しだ、とアイマスクを求めた。最近のアイマスクは鼻のあたりが立体的な縫製になっており、つけてみると本当に真っ暗になる。この漆黒というのはなかなか新鮮だ。なぜなら、夜でさえカーテンを閉めても外の街の明かりは少し入る上に、部屋の中は何らかの電気製品の小さな光がついている。外灯のない郊外の野山にでも行かない限りは本当の黒には出合えない。こうして私は日中でも漆黒を手に入れた。
 たった一分でも、アイマスクをつけているとおもしろい変化がある。まず、黒い闇の中に目元だけだが身を置いていると、時間が止まっているような感覚になる。本来時間とは意識が作っているというが、ちょっと不思議な遊園地のマジックハウスに入ったようになる。やがて、聴覚だけが外界との接点になる。空調の音、ドアの開く音、人の靴音。これは男性かな、女性かな、車の音、人のささやきだ、と音が立体的な記号となって耳に入ってくる。そんなものを味わったあと、アイマスクを外すと、目に飛び込んでくる色が、こんなにも鮮やかで光がまぶしかったのかとびっくりする。画家の目はこうした物の色の鮮やかさや光線に敏感なのだなと再発見する。そして、頭が少し仮眠したようにリラックスをしていた。疲れているときは椅子に座っていてもできる小旅行だ。目の疲れも少し軽減する。一時的なことだが、こまめに目と脳に小休憩を取ることは大事なことだ。 

 また良い眠りに関する取り組みとして、別のことも試してみた。お湯に精製されていない粗塩を入れて体を清めるのだ。海で泳いだ後はぐっすり眠った小さいときを思い出し、やってみた。その日の疲れが塩分で流されるようですっきりする。まだ、夜中に目が覚めるものの、以前よりは回数が減り、朝目覚めても少しは寝た感覚がある。おそらく塩には精神的なストレスを流す力があるのではなかろうか。眠りはもうひとつの人生だ。生きていく上で、眠りの安息は何としても死守したい。要するに自分をコントロールする方法を見つける大事なものと分かっている。だが、『ストレス』や『不安』に簡単に気を取られて、人生の舵(かじ)をこれらに手渡してしまうのが人というものだ。本当に自分のコントロールなどできうるものだろうか。
 そう考えたのも、先日『天井桟敷の人々』原題(LES ENFANTS DU PARADIS)という一九四五年完成のフランス映画を渋谷で見たからだ。第二次世界大戦当時、ドイツ占領下のフランスで作られた近代の精神文化の記録ともいえる。生きることこそ芸術なんだ、という制作者たちの思いがにじむ作品だ。人間の感情がきちんと見えていた。
 ストーリーは、次の通りだ。ガランスという美女に恋する四人の男たちの、それぞれの妄執の形を十九世紀のパリの民衆の生活とともに描かれる。脚本を『枯れ葉』の作詞で有名なジャック・プレヴェールが書いていてセリフが上等なヴェルヴェットのように美しい。登場人物たちの恋の盲目さや自尊心を守るために殺人や決闘をする姿は、子どものように素直で衝動的だ。恋は個人の中の夢想の内から出ることは実際にはない。だからその夢想こそ楽園ともいえる。この映画のフランス語の意味は『楽園の子どもたち』である。
 自分の頭の中に描いていたパラダイスという『イデア』を、現実世界に作りだそうと苦しみもがく。この構図は二歳の子どもも百歳の大人(おとな)も同じだ。どんなに大きくなっても、人は自分の心の楽園に住む子どもなのか。そう思ったら、笑いがこぼれてしまった。みんな楽園に元から住んでいたのか…と。人は元々エデンから出てもいなかったのか。
 実は、『楽園の子どもたち』とは、劇場の最上階(三階)の安い席で役者と共に泣き笑い、ヤジを飛ばす観客を指すことばらしい。映画の中で、劇団のオーナーが言ったセリフに私はドキリとした。
「私は、あの貧しい天井桟敷の観客たちが、舞台の役者とともに泣き笑うのをこそ見たい、役者とともに彼らは舞台で生きているんだ」、というような意味だったと記憶している。
 他者との感情の共有、それは日常の生活ではむずかしい。だが、それができる世界が、本当にあるべき楽園であろう。
 私の中の楽園は、安らぎの眠りの中でひっそり息づいているのかとも想像する。それこそ小さな子どものように。