〈随想〉
    ピンチをチャンスに
             高橋 勝

 この時期、昨年の暮れからこの春の終わる頃まで、添削業務が最も忙しい。朝から夕方まで、昼休みに散歩などはするものの、パソコンの前に座って作業をし続けている。ほぼ毎日のことである。
 考えてみれば、黙々とよく続けていられるな、と第三者の立場になって自分の姿を振り返るときがある。同じような答案を、1日に14、5枚もよくこなせているな、コメントも概ね同じようなものになっているのではないか、これで学生に少しでも役に立っているのだろうか、などと思うこともある。それなら、どうして厭きることもなくこれまで5、6年も続けてこられたのか、そこには人には見えない喜びや、やりがいや、幸福感といったものがあるのではないか、そうであるなら、とその原因を一度じっくり考えてみたくなった。
 まず挙げられるのが、直接相対しているわけではないが、1枚の答案用紙を介して、その背後にいる学生との一期一会の一体感が得られることである。論作文用紙に書かれた文字と文章から、決められた時間内で、同じ受験空間のなかで、辞書の1つも見ることなくどのような思考過程をたどっているのか、その緊張感が否応なく伝わってくる。そこにはさらに、執筆者の息遣いが隠せることも能わずして直に伝わってきて、ときにはあまりに込み入った感覚に導かれ、理性が混乱し、息苦しさを覚えることもある。
 単に、文字という記号を読むだけじゃないか、意味が分かればそれで好いじゃないか、という声がどこからか聞こえてくる。しかし、当人の手書きの文章には、それ以上の、否、その人なりが確かに感じられるのだ。これは、書いている本人にも意識できない言葉の持つ文(あや)の力によるものだろう。北海道から沖縄まで、全国の大学生が同じ日本語で綴る文章を、何の違和感もなくすっと読めて分かる、「神秘」な、いわば言霊(ことだま)体験というようなものがここには確かにある。
 しかし、それに留まるものではない。受験生の表現した文章から、それが、静まりかえった森の池の水面に、銀河の欠片がポトンと一個落ち、波が穏やかに拡がるみたいな刺激を与えられ、新たにものを考えるきっかけになることがある。この間もそのような答案に出会った。このときの課題は、行政の取り組むべき地方活性化策に関するものだった。

「(一部略)現在、沖縄県では、北中城村に県内最大級のショッピングモールが建設中である。北中城村では、今までに目立ったランドマークが無かったため、これからの地域活性化に大きな期待を寄せているが、ひと昔前まで商店街の栄えていた隣接する沖縄市では、年々減少する顧客人数にさらに追い打ちがかかると懸念している。また、沖縄市だけでなく周辺の北谷町や宜野湾市からも、大型ショッピングモールによる経済損失を危惧する声が上がっている。
 そのため、少しでも周辺地域の活性化による悪影響を防ぐため、行政はこのピンチをチャンスに変える対策を行わなければならない。以前、九州で新幹線が開通する際、今まで福岡と鹿児島の中継地点となっていた熊本県は、観光客数減少の不安を抱いていた。しかし、県が一丸となって、熊本県のキャラクター「くまもん」を全国に売り出したところ、またたく間にヒットし、現在では「くまもん」の経済効果は1億円にも及ぶという。
 このように、ピンチをチャンスに変えるべく、行政は、近隣地域の大型ショッピングモール開設に伴う顧客人口の増加による大幅な顧客移動の波に乗った政策を行うことが求められる。例えば、大型ショッピングモールで地域の特産品をアピールするイベントを行い、顧客の興味を惹きつけ、周辺地域にも顧客の足を向かせたりすることである。行政が地域の人々と協力しあいながら地域をアピールしていくことが大切である。地域のピンチをどのようにしたらチャンスに変えられるのか、地域の人々と連携を取り相談することが必要だ。」(R大、S・Iさん)

 上の論作文は、ピンチをチャンスに変える、いわば逆境にあるからこそ、それを逆手にとって新たなビジネスチャンスに活かそうとする取り組みについて述べたものである。その目の付けどころは創造的な思考として展開されているが、地域や地域の特産物を、与えられたチャンスとして前向きに捉えてアピールするだけでは、やがて限界に突き当たるのかもしれない。このためにはさらに、無のところから新しい取り組みを試みるのではなく、あくまで地域に伝わる伝統技術を活かして、特産物に改良を加えて商品開発をしたり、地域に伝わる観光資源や地場産業などと組み合わせて今日の時代状況に即応した形の新産業を起こしたり、あるいはショッピングモールでのPR会場を拠点に地産地消の意義を説き、国内への販路拡大などを図ったりする、総合的なノウハウ支援に取り組むこともできるのではないか。こうして、地域の魅力を復活させるのである。
 こうしたあり方は、日常生活でもよく見かけることだ。ピンチに陥ってしまったとき、絶望的になり、自分の運命を後ろ向きに捉えてしまう場合と、仕方がないとしながらも、そこにこそかえって一縷の望みを見出し、これしかないと、そこで精一杯に生き、そこから新たな人生を創り上げる生き方というものもあり得る。そういえば、文学作品のなかにも、このような生きざまがあるのを思い出す。
 平安時代に女流文学が発展し、おおよそ日本文学史上、この分野での最盛期を花開かせたのだが、その一因にこのピンチをチャンスに活かす基本型が見られるのである。男から女に歌を詠みかけると、女はたとえ拒まずにはいられない男であっても、必ずかえり歌を詠み返すのが習わしだった。歌には身分に関係なく、その人の真情を詠み込むことが許されていた。そこに女は、自らの鬱々とした思いを、それとは分からない形にしろ、ありのままに表現して相手に伝えることができた。次第に女の思いは和歌だけには納めきれず、詞書きが添えられるようになり、さらに歌物語が創作され、源氏物語に繋がっていく。
 また、絵画の分野においては、たとえばゴッホの場合、絵を描くことを労働に従事するのだと「手紙」のなかで書いている。そうして、実際「労働」に励んだのである。外に出かけ、畑や海や病院内などに目を向け、そこに何某かの感動を見つけると、その感動をひたすら絵に描き続けた。これが彼の労働である。
 なぜゴッホは自らの創作活動を労働と捉えていたのだろうか。ただやみくもに何でも仕事をやり続ければ良いということではない。感動する心が先になければならないのだ。それを作品に仕上げること、そこに自らとの闘いが、闘争を続けられるエネルギー源があった。精神分裂症と人一倍強い自我という二重の「個性」を背負っていたために、恋愛も、家庭教師も、牧師の職も、友人ゴーガンもすべてを台無しにしてしまい、ただ一人の心の友である弟のテオとの関係もうまくいかなかった。そうした己のありのままの個性を何としてでも克服し、その束縛から自由になって、心の安らぎを得ようと必死で生きようとしていた。このために彼の唯一身につけていた絵画の技術を駆使することに思い至るのである。これが彼を労働に仕向けた背後にあるものだ。それゆえ、ゴッホの場合は、今日的な意味での単なる労働観というよりも、精神性の伴った日本的な勤労観と表現した方が適切だと思えてくる。今日観られるゴッホの作品の数々は、こうした勤労の形見であるのだ。
 このことを自らの「労働」と較べて見ると、添削の場合、機械的に何も考えず、持てあます時間を埋めるだけの、報酬を手にするだけの仕事と見なしていると、本当につまらなく、単に苦役に耐えるだけになってしまうだろう。学生の、ときに表面的な、持てる知識を羅列しただけの、あるいは根拠や整合性のない夢想に酔いしれた作文に延々と向き合っていて、そのなかに含まれている、深まりの手がかりになれる星くずのひとかけらを見つけ、建設的なコメントをひねり出して助言することは、自己発見にも繋がるし、表現を整えて相手に返してやれることは大きな喜びであると同時に、生きる張り合いのひとつにもなりうる。
 退職後、することもなくなり、虚無感に取り憑かれていた1時期、運よく、これまでの経験が活かせる今の仕事を与えてもらったのだから、このチャンスを生かし、「感動する心」を見失わずに、やれるところまでやっていきたいと、改めて思う。