レコード音楽
           高橋 勝


 現役を退職してからいつも感じていることだが、両者の間に大きな変化を覚えるひとつに、趣味のレコード音楽への関わり方がある。現役時代は仕事柄、年がら年中人とかかわり合っていた。当然ストレスがたまってくる。これを発散させるためのひとつとして、私は、休日を待っては家でレコード音楽を次から次へと呆れることなく聴いていた。それが今では昔ほど積極的に聴こうとする気分になれず、オーディオアンプの真空管にチリが積もっている。なぜそうなってしまったのかと、常々疑問に思っていた。
 退職して家にいると、まず感じるのは何をやるにも時間の制約が取り払われていることだ。決められた時間割も予定表もノルマもない。時間配分も思う存分好きなように行える。音楽においても、聴こうと思えばいつでも聴けるといった安堵感がある。部屋には、これまで生活費まで削って揃えた大きなイギリス製スピーカーやマルチアンプなど大がかりなオーディオ装置と、一時期、 小遣いのほとんどを費やして蒐集した数多くのLPやCDソフトがあるので、あえて聴こうという必然性が喪失してしまったのではないのか。つまりこれまでは仕事を柱とした生活上の制約のおかげで、レコード音楽を聴くことに対する思いが日々堆積していき、その内側に漲った力が休日に一気に発散されたのだと言えよう。その意味で、レコード音楽といえどもただ音楽そのものを切り離して楽しもうとする芸術至上主義的なあり方とは異なって、少なくともその本質には生活との関係が厳然と結ばれていたのである。それが生活の急激な変化のため、レコード音楽への取り組み方にも影響が著しく現れてきたのだと考えられる。
 あの当時、脇目もくれずオーディオ機器を次々に買え換えていったのは、ナマに限りなく近い音を追求しようとしていたためだった。音が身体に機関車の轟音や雷のように直接打ち付けたり、清流のそよぎが魂のなかに染み入ったりして、肉体にひたすら反応する物理的な効果を得ようとしていたのだ。実際、生活上のやるせない懊悩や、働くことの耐えがたい辛さへの癒しや慰めや快感といった代償効果がなかったかといえば嘘になる。それでも音楽に感動できたのは、やはり生活との繋がりで音楽が存在できていたからだと思われて仕方がない。
 それが退職後は、身体自体が物理的な反応に昔ほど敏感ではなくなってきたのもひとつの原因だとは考えられるが、より基本的には、規制されていた生活から解き放たれてしまい、生活との繋がりで音楽を把握できなくなったせいだと思う。しかし、失った現実はどうすることもできないけれど、およそ音楽を聴くにはその一方で、聴く側の積極的な歩み寄り、つまり音楽そのものに対する集中力や想像力といった、自ら働かせられる内的要因によっても聴き方に大きな違いが出てくるものと考えられるのだ。
 レコード盤から音楽が流れていて、言語に絶する美を感じとっていたのは分かっているのだが、 音そのものには音楽を理解する上で何の関係もないことが、あるコンサートホールで演奏会を聴いたときに感じることができた。目の前で演奏されている音こそナマそのものなのだが、よく知られた同じ曲を自室の装置で聴いたときほどの感動は少しも覚えることができなかった。レコードで聴く音はどれも今鳴っているナマ音よりは確かに輝いていないけれど、これほど音楽を理解するうえで大きな違いが出てきてしまうのかと驚嘆したのだった。それは、演奏者個々人の曲の解釈と感性と人格に基づく伎倆がいやがうえにも投影されるためだと気づいた。作曲者がそのとき何を想い、何に悩み、どのような背景で生き、作曲しようとしていたのか、あるいは今日との繋がりはどのようなところに見いだせるのかといったことまで、演奏者の紡ぎ出す音楽によっては聴くものに深く想像しやすくしてくれているのだった。
 例えば、ピアノでは、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第二十二番」で、温かなドイツ的抒情を訴えかけるエドウェン・フィッシャーや、ショパンの「二十四のプレリュード」で、繊細なフランス人の粋を歌いあげるコルトー。 あるいはベートーベンの「ハンマークラヴィーア」で、生の悲哀まで表現したディノ・チアーニ。弦楽器では、まずアドルフ・ブッシュが挙げられる。かれは、戦時中ナチスの支配するドイツからアメリカに亡命して演奏活動を続けていたが、彼の表現するドイツ魂は、アメリカ人によって最後まで理解されないままだったと言われている。彼の奏でるバッハの「シャコンヌ」やベートーベンの後期弦楽四重奏曲には魅入られる。また、バッハの「無伴奏チェロ組曲」を最初に演奏したカザルスがいるし、指揮者では、特に戦時中、凄絶な演奏を繰り広げたフルトヴェングラーや、ステレオ時代にバッハやベートーベンの宗教曲などに著しく人を魅了する演奏を展開したクレンペラーといった演奏家もいる。
 このような演奏家たちの音楽を聴いていると、いずれもそこから深い信仰心が感じられ、その奥にはさらに人間の生きるための根源的な悲哀が脈打っていて、聴くものの魂に訴えかける。私には、こうした音楽の神髄を聴くと、『源氏物語』の宇治十帖に登場する大君(おおいきみ)や浮舟の毅然とした生を貫く姿が思い浮かんできて、自分が救われるような感覚に陥る。
 右に挙げたLP盤は主にモノラル録音であり、SP盤の再復刻盤であるため条件はさらに悪くなる。しかし録音状態がそれほど良くなくても、否、良くなければ良くないほど、そうした制約を乗り越えようと、聴くものは、ときの演奏者を通じて聴こえてくる音楽に全身全霊で向き合わざるを得ず、さまざまにイメージを膨らませることができるのだ。そうすると、いつの間にかその癒される幸福感に酔いしれると同時に、この一片の曲は終わりに向かって疾走しているのだなという思いに駆られ、さらに今鳴っている音楽自体に集中し、身体は熱く火照り、眼は潤い涙が頬を伝う。まるで人の一生のある瞬間、瞬間、を生き抜いているかのように。
 現役時代、身のほどしらずのお金まで注ぎ込んで手に入れたオーディオ機器。そんなことしなくても初めの頃持っていたほどほどのもので充分だったのにと、今になって後悔の種にしても仕方がない。今はホコリを被りがちだけれども、依然として傷ひとつなく同じ場所に陣取っているのは幸いだ。それを血気盛んな頃と較べて使わなくなったなどと悩むことなく、音楽の捉え方も、年齢と置かれた状況に応じて変わってくるのだと理解したい。そして、たとえ何歳になっても現役の仕事が続けられればそれに越したことはないが、そうでなくても、今度は、生活との繋がりそのものを乗り越えて、レコード音楽を人生と関連づけて聴いていけるじゃないか。すでに失ってしまった幸福を追憶し、いつの日か失うべき自己の生命を慈しむことが、音楽を通して生きられるだろう。
 演奏自体もできるだけ分かりやすいもので聴きたいとは思うが、これまでのように演奏家に特段とらわれることなく、身近に手に入るものならいかなる演奏家の録音でも、その制約された表現の幅や深さを自らの集中力と想像力を駆使して、あふれるほどの生命を感じとって勇気づけられたい。針をレコード盤に置き、鳴り始めるやいなや曲のなかに入り込み、終わりに向かって疾走して行く一片の曲のように、私もレコード音楽を限りある生涯の友として、これからもそのときどきで親しんでいきたいと思っている。