〈エッセイ〉
        レコード蒐集
                 高橋 勝
 
 このところ、CDやLPなどを買ったことがない。それまで、ネットオークションで落札したり、レコード店からネットで注文したり、あるいは中古レコード店を巡ったりするなど、物に憑かれたように漁ってきた。それが生きる楽しみのひとつであり、いわば、自分もレコード蒐集狂の一人であったと言ってもよい。
 ところが、次から次へと仕入れたレコードは、1回聴いてはレコード棚に仕舞われるばかりだった。気に入らないものは1箇所に集めておき、ある程度溜まったら専門中古店に買い取りに出す。だからいつも絶対数はそれほど溜まらない。ところが、CDの方は、特にボックスセットになっているものは買ってきても全部などとても聴き切れるものではない。それゆえ、1度もオーディオ装置を通過したことがないものがかなりある。3分の1ほどは未通盤といったところだ。
 それにも関わらず、なおも何か面白いものはないかと目を皿のようにして、今まで手に入れていないソフトを見つけるべく構え、これはと思えるものに出会ったときは目指す獲物を食いつかせたときのような高揚感を覚え、後先のことを考える余裕もなく大体は釣り上げていった。
 それがここにきて、なぜ探すことも買うこともピタリと止めてしまったのか、考えてみると不思議である。自身にもよくは分からないのだが、1つには経済面における節約志向があると思う。収入が限られているのに、それまでと変わりなくこの方面にばかりに金銭を費やしているわけにはいかないという危機感が、そのような態度をとらせるきっかけになったのは間違いない。
 それで仕方なく、ありあわせのCDやLPを引っ張り出して聴いてみると、それまで1度もかけていなかった曲や、いっぺんしか聴いていないソフトにひどく感動するものがあるのに気づく。それにCD1枚、最後まで聴くなら長いもので90分もかかる。1日の生活時間のなかで、これだけ集中して聴くのは結構疲れるし、それだけの時間を確保するのも難しく、とても毎日聴けるものでもない。それに加え、お気に入りのレコードもあるから、今あるものを聴くだけでも相当な時間が必要になる。
 もちろん、新たなレコードやCDにまったく関心がないわけではないが、当分は手元にあるものを充分聴きこなしていきたいと思うようになった。このことに気づけたのは、大きな意味があるに違いない。
 それまでのクラシック音楽としては、中学校の昼食時、バックグラウンドとして良く鳴っていたのを何気なく耳にして、子供心にも深く感動し、その後長く記憶に残っているものがたくさんある程度であった。それゆえ潜在的な嗜好はあったと思うのだが、その後はこうした音楽に触れる環境も機会もほとんどなかった。そんな背景をもつ自分がそもそもレコード蒐集を始めるきっかけになったのは、教師になってから、定時制を受け持った一時期が関係している。昼間、自由に使える時間があったので、オーディオに関心が向かっていったのだ。そんなとき、あるクラシックレコードマニアの方と知り合いになる。その方の作ったオリジナルのオーディオ機器をつぎつぎと購入すると同時に、さまざまなレコードに関する知識を吹き込まれる。言われるとおり自らもめぼしいレコードを片端から手に入れて実際に聴いてみる。確かにどれもこれも素晴らしい。それ以降、『レコード芸術』やレコードや演奏家に関する書籍類を読んで、往年の名盤への知識を深めていき、気の向くまま触手を伸ばしていった。
 これはこれで間違っていたとは思えない。だが、徹底して欠けていたものがある。いくら素晴らしい演奏だといっても、演奏家ばかりに囚われて、その一枚いちまいに充分耳を傾けてこなかったのである。繰り返し聴いたり、曲自体の解釈や作曲者について関心を向けたりすることなど考えたこともない。譜面もまったく読めず、音楽を聴いて直に感動できればそれはそれで充分意味あることであると思うばかりだった。
 特に退職後、添削の仕事を1日中続けていたり、読書に何時間も没頭していたりして頭が重くなり、自分を持っていく場がなくなってしまうとき、レコード音楽のことを思いだし、おもむろに聴き始めると、次第にそれまでの重く閉ざされていた自分がどこか他所の世界に連れていかれるような気分にさせられたり、いつしか安らぎを覚えさせられたりして心が潤ってくるのを感じた。しかしこれだけではレコード音楽を充分楽しんでいるとは言えないし、主体的な聴き方とは言えないのではないかとこの頃は考えている。
 確かに、人に教えてもらったり本を読んだりした知識をもとに入手したレコードは、それなりの楽しみをもたらしてくれるのだが、これではどこまで行ってもレコードに満たされるということがなく、餌を目の前にぶら下げられた犬みたいに飽くことなく蒐集を追い続けなくてはならなくなるだろう。そのうえ、レコードのなかに録音されている演奏家の精神ばかりではなく、その曲を創作した作曲者の魂や、その時代の社会背景や風土といったものとの繋がりなどを捉える想像力がすっぽり抜け落ちているため、新たな音楽世界を切り開いていくことなどできないのではないかと疑念を覚えるのだ。
 シベリウスの音楽からは北欧に拡がる森林のそよぎや、冷たい風の流れや岩場からの水の滴れが生命感を刻んで感じ取れるし、伊福部昭の交響曲からは作曲者の生まれ育った北海道の凍える風土や、そこから育った民謡の精神が息づいているのが感知できる。そのようなとき、まるで別の自身がその土地に生きているような感覚を覚えてしまう。あるいはモーツァルトやベートーヴェンの生き方を考えてみれば、どちらも幼いころから父親に音楽の練習や演奏を強いられ、そうした自らの運命を恨んだことがあったとしても、結局逃れることもなく、徐々に受け入れ、心魂を傾け、やがて大成していったことが分かる。こうしたことが、幾多のピアノソナタや最晩年の宗教曲などを聴くたびに気づかされ、勇気づけられるのである。
 今後は、根無し草の聴き方から脱皮する必要がある。言葉による外部からの「教え」に頼るばかりではなく、たとえ間違っていたり偏ったりした聴き方や理解の仕方であったとしても、自らの耳で音楽自体を聴いて自らの耳を信じることである。この先も、真に満たされる音楽鑑賞への道につなげていくためにも、音楽分野での1書生として修行し続けていきたい。