散  歩
                 高橋 勝


 今朝も早起きして、自宅近くの水田地帯まで一時間余り歩いてきた。一日に一回は散歩するようにしている。 職場を離れたため身体を動かさなければとの思いのためであるが、その一方でこの時間帯が私にとって掛け替えのないものになっているからでもある。
 同じように歩いている人たちはどこに行っても見かけるけれど、大抵自分以外の何かを友にしている場合が多い。 言うことを利かない犬を連れていたり、夫婦で話しながら歩調を合わせていたりする。 あるいは一人で歩いているのかと思うと、小型ラジオやカセットテープなどをポケットに差し込んで音を流している。
 黙々と一人で歩いていたのでは無聊(ぶりょう)を託(かこ)つことに耐えられないのだろうか。 朝靄のかかった空気の中に相方をともなって出ていけば、お日様が東の空に昇るのに気づきながら、それほど深刻にならずに無為の時間を過ごせるのかもしれない。 あるいは話せる相手がいたほうが、話題も意外な方向に展開できたり新たなアイデアに気づいたりして有意義に過ごせるのだろう。 しかし私は、人間は孤独に追いつめられれば追いつめられるほど反比例的に感性が鋭くなり、眼を向ける対象に惹き入れられてしまうと思わずにはいられない。
 今朝もそんな感覚を味わった。刈り取りを待つばかりに育った稲穂が首を垂れている。歩くにつれて雀の一群がいっせいに飛び上がっては、まるで自分の影法師のように私の歩く方向に移動していく。 一メーターほどの水路にさしかかる。何本かの稲わらが水底まで透きとおる水面を勢いよく流されている。 両岸に伸びる稲穂も水面に映っている。私は、立ち止まって見ていた。
 小川は何か囁いているようだ。水流の源泉は、大型ポンプが山の手の方から汲み上げている地下水であることを知っているが、昔、そう昭和二十年代半ばから三十年代の子ども時代だったころ、眼に焼きついている田園風景を思い出させてくれる。めだかや源五郎や泥鰌(どじょう)や小蛙(かえる)や蝗(いなご)など、どの田んぼにも活き活きと動き回っていたあの情景だ。
 しかし今日の河川は、至るところで農薬や排水や下水の垂れ流しによって、色は黄色く濁り、腐乱した臭いに思わず鼻をつままずにはいられないほどで、魚一匹住めなくなっている。…… 川の物言う声がその背後から聞こえてくる。好きこのんでこんな姿になったのではない、やれ時代が変わったのだ、避けられない運命のせいだ、などと言って欲しくない。あなたたち人間の身勝手のせいでこうされてしまったのだ。事情は家庭の様子も同じだろう。親の姿を観てみればいい。大抵は帰宅する時間も惜しんでがつがつ働き、留守の子どもにその代償のつもりなのか、欲しいものなら金に糸目をつけずになんでも買い与え、いっときの安心を得ようとしている。しかし、子どもにとっては、いくら高価な物であっても、与えられる物はしょせん飽きれば捨ててしまうおもちゃに過ぎないんだ。そんなことも分からず、物やお金を手に入れることが本当に一番大切なのか? そのために、人間は、何か大切なことを忘れているんじゃないのか? 犠牲にしていることがあるんじゃないのか? 
 頭を垂れてふたたび歩き始める。眼は次第に自分の内側に向かっているのに気づく。
 私が定年まで四年を残して教職を辞したのはもう六年前になる。最後の日まで一緒に頑張ろうよとか、職場環境や給金に恵まれているのになにが不足なの、いったいほかに何がやりたいの、などと残念がってくれた人たちが眼に浮かぶ。それなのに、定年退職後に携われる仕事に気力の衰える前の今のうちから取りかかろうと、ゴール直前に身を投げる思いで深い川を渡ってしまったのだ。
 その職業というのがそれまでかかわっていたものとは全くの畑違い。もともと学生時代からどちらの方向にハンドルを切るか迷った専門分野で、現役時代を通じていつも心の片隅に生き続けていた。
 現役を退くと、短期間のうちに身につけようと必死に頑張った。だが、結局四年後になっても物にならなかった。いくら好きな分野だといっても数十年も遠ざかっていたのでは、あの青春の感覚は甦るはずもなかった。結局、今からでも元の専門分野にもどり、多少なりとも社会と繋がっていられることしか残された道はないのだと痛感したのだった。
 それと同時に、私には始めて気づいたことがある。それまで続けてきた仕事を心のどこかで運命の職業として受け入れてこなかったのではないのかと。自分が身につけ、精魂を込めて長らく働き続けてきた道は、眼に見えない大きな力に支えられているもので、そう簡単に抵抗できるものではなかったのだと。
 今回の実験をしなかったら、私はいつまでも煮え切らないまま悔やんで自分の命を終えたのだと思う。遅まきながらこの「失敗」は、真の道を見出す過程であったのだから、やはりこれもこれで良かったのだと今では思える。
 こうした思索ができたのも、すべては一人歩きを日頃の習わしとしていたからだったのかなとふり返る。その結果、この散歩のひとときが輝く時間になっていたのだ。でも、もの思いに耽りすぎて、池に落ちたり、あてどなく見知らぬ土地に迷い込んでしまったりしないよう注意しなくてはならない。