散歩道で
                中井和子

 私は、時々夫の散歩に付き合う。
 八十四歳になった夫は、十数年前、命にかかわるような大きな交通事故に遭(あ)った。 
 そして、三年前の平成二十三年には、散歩中に転倒して怪我をし、それが元で敗血症になった。一時危篤状態に陥ったほどであったが、先生方が手を尽くしてくださり、命を取りとめることができた。
 私は、夫の持つ強運に感謝するのだった。

 傘寿の坂を越した夫は、そのときの一ヶ月の入院で足が弱り、退院すると、そのリハビリのために散歩を始めた。
 その散歩中にまた、転倒でもされたらたいへんと、私も夫について歩いていた。しかし、夫の歩くペースは遅く、夫は私と歩くのを嫌がった。
 そうして、夫は携帯電話を持ち、近くの運動公園を一人気ままに散歩するのを日課にするようになった。しかし夏になると、その運動公園には木陰がないので暑い。
 時どき、私たちは涼を求めて、一九九五年の福島国体開催時に整備されたあづま総合運動公園へ、ドライブをかねて散歩へ出かける。
 その公園は奥羽山脈、吾妻山の裾野にあり、道中の田園風景は野趣豊かだ。桃畑、梨畑、リンゴ畑も点在していて、その風景には心が和む。

 総合体育館へ通じる道の入り口に車を置いて、ゆるやかな坂道になっているウォーキングコースに入る。その道はサクラ並木に造成されて、春はピンクに染まり、見事である。原野であった山の樹木も残されており、夏には青葉のトンネルとなり、強い日差しを遮(さえぎ)って涼風が通り抜けて行く。頭上を山鳥たちが澄んだ声を響かせる。そして道端の群生の山百合の香りが道行く人を応援する。
 子どもたちがカラフルな自転車やローラースケートで走り回っているのも微笑ましい。
 老夫婦の方たちや、若い人たちはそれぞれのペースでジョギングを楽しんでいる。体育の選手たちなのか、隊列を組んで走っていく。
 その若い人たちの姿を眺めると、夫は決まって彼らの元気を羨ましがる。自分にもそのような時があったことを忘れてしまったように、である。それだけ、今の自分の身体がじれったいのであろうと、私は同情する。
 そのジョギングコースの道の両側には、家族で楽しむ「トリムの森」「巨石広場」「ピクニック広場」などの施設がある。
 また、同じ道筋にある福島市民家園は、江戸中期から明治時代にかけて建築された福島県北地方の普通農民住宅や民家を中心に養蚕農家、料亭、芝居小屋、消防ポンプ小屋などが移築復原されており、昭和一桁生まれの私にとっては、それらの家屋の中で生活してきたので、懐かしい住居ばかりである。
 中でも養蚕家は私の郷愁を誘う。
 祖父の家は農業と養蚕をしていた。母屋と別棟の二階家があって、下には使用人が住み、二階には十段ほどのいくつもの蚕棚に、蚕を飼育するわらだが置かれていた。
 そのような時期に祖父の家に泊まりに行くと、家人は朝早く起きて、桑の葉を摘みに行く。蚕のわらだにその桑の葉をいっぱいに覆い被せる。とたんに『ワシャ、ワシャ』という、蚕が桑の葉を食(は)む音がするのだった。
 民家園の養蚕家をのぞくと、その『ワシャ、ワシャ』の音が私の耳によみがえってくる。
 道筋の施設や広場へ視線を投げかけながら、そして、所々に設置されている椅子で歩を休める。
 若き友の声が聞こえるようだ。
「途中で足を五秒止めたら、そこから、また新たなスタートになるのよ」
 私は心の中で答える。
「それでもいいの。自然の中を歩けるだけ幸せよ」
 それにしても、半月ぶりに夫と散歩したのであったが、夫の歩行が速くなっているのに驚いた。家の中でつま先立ちや足上げの運動、スクワットなどをしている夫の姿を見ていたが、その努力の成果であろうか、私の方がついていくのがたいへんになり、日日の努力の大切さを知らされたのであった。

「さあ、もう少し歩こうか……」
 夫が立ち上がった。私も慌てて立ち上がり一歩踏み出したら、小石を踏んでよろけた。
「危ない!」
 と、私は思わず夫の腕にすがった。そしてそのままで冗談を言った。
「ランデブーに見えるかしら」
 夫は憮然と、すかさず言った。
「見えない。介護の付き添いに見えるよ」
「あははは」
 私の笑い声が樹木の葉の隙間から抜けていった。