〈随想〉
  三 猿
                高橋 勝

 家の近くに渡良瀬遊水池がある。先月(6月)、池の向こう側へ近道のできる野渡橋が通れるようになったので、早速車で出かけてみた。正門に続く駐車場から野外に出てみると、水瓶が満々と水を湛え、周囲には葦草や桑の木などの新緑が痛いほど眼に入ってくる。空は真っ青で、カラスのコーラスを背景にウグイスの谷渡りが宇宙の彼方まで響いていくようだ。
 池の周りには、遊歩道が10メートルほどの幅で舗装されている。サイクルロードレースのコースにもなっているからだろう。ときには、葦原の茂みに入り込むこともある。人がよく歩くので歩道が自然にできてしまい、今ではきちんと道の幅に刈り取られ、歩きやすく整備されている。準絶滅危惧種に指定されているという野草が、至るところにテープで囲ってある。大きいのは相撲の土俵を2、3面つなぎ合わせたものもあるし、飛び縄の紐で囲える場所もある。確かにそれらしい植物は生えているのだが、素人目のためか、どれも同じ草花にしか見えないのは残念である。そのようなことを思いながらもしだいに奥まった方まで歩いて行くと、谷中墓地に出食わした。
 この墓地は、旧谷中村跡のなかに今に当時の面影を残すひとつである。明治10年以降、足尾銅山から排出された鉱毒により、利根川水系の洪水のたびに村にも大きな被害がもたらされ、ついには官命により村の存在そのものが取り壊される事態へと発展する。村民との長期に渡る争いは、明治33年、田中正造の天皇直訴事件にまで展開し、ここに至ってこの鉱毒事件が社会の耳目を集めるようになる。しかし、この村名もやがて地図から消えていくことになったのである。
 今の遊水池が新たに整備され始めたのは20数年前頃だと記憶しているが、そのころ野晒しにされていた遺跡も、同じ時期に元の状態を崩さずに手入れされたのだろう。そのせいもあって、今日、子供たちの遠足コースになっていたり、シルバー世代による歴史研究の一等地になっていたりするようで、静寂のたたずまいの中にいつも誰かしかの姿を目にしないことはないのである。
 延命橋という水の流れていない4、5メートルの橋を渡って行くと、どことなく今にも崩れそうな小高く盛り土された舞台に雷電神社跡がある。近くには、桑の大樹が数本あって、その下に墓石が無造作に10数基並んで控えている。目にすることはあっても、特に気に留めることもなかったのだが、今回はなぜかある墓石と眼が遇ってしまった。
 よく見ると、それは墓石ではなく庚申塚の石塔だった。何基か並んでいるそのうちの一基に、見慣れた「三猿」が刻まれている。さらに近寄っていくと、今まで気づかなかった彫刻が浮き彫りになっている。上部の6分の1ほどの配分で「見ざる、言わざる、聞かざる」の意を表した3匹の猿の像が彫られている。その下の空間に金剛像のような像が彫られている。ここまではこれまでも目にしたことがあると思う。しかし、これは単に気づかなかっただけなのかもしれないが、同じく6分の1ほどの最下部にこの仏像に踏みつけられ、どうにも立ち上がれそうにない邪鬼が3匹、彫られていたのである。
 三猿といえば、耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過ちを言わず、といった解釈や、子供のときは世の中の悪いことを見たり、聞いたり、言ったりしないで素直に育ちなさいとの教育論的な意味を表しているとの一般論で理解してきたに違いない。しかし、ではなぜ金剛像に踏みつけられている邪鬼がこの石塔には刻まれているのか、今までの解釈によってはつじつまが合わないような気がすると同時に、ああそういう意味であったのかと、始めて気づけたような嬉しさが込みあげてきた。
 見ては好くないと心のどこかで抱いているものを思い切って見てしまうことにより、誰もが自分の中に飼っている邪念を目覚めさせ、活性化させてしまうのだろう。その結果、自からが自らをコントロールできない邪悪の化身状態となり、財産も家族も、肉体も精神も、あるいは苦労してきた実績や名誉もすべて失いかねない事態に追い込まれていく。現に、こうした事例のニュースがメディアを日々賑わしている。長いお付き合いをしてきた人の、ある一言というものが相手を傷つけ、取り返しのつかない事態に発展させてしまうこともある。たった一度、あなたは八百屋に並んでいる果物の一個、野菜の一束ほどの価値もない人間だなどと、人格を否定されるような言葉を面と向かって言われたり、何気なく耳にしたりすると、徐々にその言葉を発した相手のすべてが嫌悪の色に染まってしまい、憎しみへ深まっていくと、今度は矛先が自分に向かい、一生癒やされない自己否定にまで発展しかねない。
 この事態を例えてみると、それまで身体に悪いと思って長らく断酒していた人が、あるとき少しだけ飲んでも大丈夫との悪魔の囁きを聴いてしまい、そうだよなぁと自分に言い聞かせ、一口飲み、今回はここまでにしておこうと1合きっちり量っておいたのを、チビリチビリ飲んで、やがて飲み終わったころ酔いも少しずつ回ってくると、たまにじぁないか、今日だけにしておこうなどと、いつの間にか四合瓶の日本酒を空にしてしまうようなことだろう。そもそも、酒は百薬の長などというけれど、あれは酒に取り憑かれた人間の言い訳であり、自己正当の弁である。少しなら飲んでも好いというが、少し飲んだらもっと飲みたくなるのが人間の性(さが)である。そこで本当に止めてしまうなら、心残りだけが自分を追い立て、家捜(やさが)ししても見つからなければ気が狂って精神病にもなりかねない。その後はどうなるか、おおよそ想像がつくというものである。
 一方、こうした在り方の対極に位置を占めるのが、「忍恋(しのぶこい)」といわれるような意図的な心の持ち方である。この言葉は、近世中頃に著された『葉隠』(1716年頃)の中にある。著者の山本常朝は佐賀藩の武士で、主君が死んだときに殉死しようとしても禁止令のためにそれがかなわず出家した人である。その常朝の語ったものを聞き書きしたものが本書ということになる。

 恋の至極(しごく)は忍恋と見立て申し候。逢ふてからは、恋のたけがひくし。一生忍びて思ひ死(じに)するこそ、恋の本意(ほい)なれ。
 恋死なん後(のち)の煙にそれとしれつひにもらさぬ中(うち)のおもひは

 自分の想いは決して人に漏らさず、自分のなかで死ぬまで保ち続けさえしていれば、絶対に曇らない、恋い焦がれたままの「たけ」高い恋として守られるという考え方だと、竹内整一氏はその著『「無常」の日本精神史 ありてなければ』(角川ソフィア文庫)で述べている。著者はこうした考え方が生まれてきた時代背景を詳しく考察していて興味を引かれるのであるが、ここでは、自身の思いを決して外に漏らさない、つまり「言わざる」姿勢を貫くところに価値観を見出している点に注目したい。
 現代人にこの考え方が理解できたり、共感できたりするのか疑問が生じる。江戸時代中頃は、武士の支配する世の中ではあって、もはや社会が安定しており武力がものを言う時代ではなく、商いが繁盛する一方で、閉塞感に乗ったり抗ったりするような文化が開花する流れに移っている。このような社会では、人と人との関係が重んじられ、思想も、より観念的なものになっていく。それを深く突きつめていった先にこうした思想が生まれてきたと考えられる。
 ここでの「言わざる」は、「見ざる」と置き換えても同じことである。本当は見たくてたまらないのに、本人が見るのは疚(やま)しいことと思っているものがある場合、自分の気持ちに素直に逆らわずに見ないでいれば、外見上、波立ちは確かに起こりえないだろう。しかし、こうすることで自分の「邪悪」な本能を暴発させることを防げ、心の平穏は保ち得たとしても、それにより失うことも多いに違いない。見て、事の真相を確かめ、安心したり、そうでなかったりするし、それにより、新たな方向性が見いだせるものである。平知盛は、「見るべきほどのことは見つ」と言って海中に身を投じたが、見たいのに見られないものがあったのでは、悔やみながらも悔やみきれずに息を引き取るかもしれない。
 見るべきか見ざるべきか、やはり人間は歳を取ってこないと、多少なりとも自信の持てる判断はできないのかもしれない。例えば、昔、熱を上げていたひとと、不本意な形で別れてしまい、その俤が今も身に寄り添っていて、いついかなるときも一身同体になっている場合、老いてから、お互いにまだ元気であるなら再会しようと思うであろうか、とても難しいことである。こうした判断は、さまざまに酸いも甘いも噛み分けてこないと決めかねるものであるとすれば、そこまで至る人生の歩みこそ、人が生きている証であると言えるだろう。