線路沿いの家
               福谷美那子


 日本の国に不景気風が吹き荒れ、いつの間にか領土が灰色に化した感じがする。
 テレビをつけると突然、仕事をもぎ取られた人たちの嘆きが、うめくように聞こえてくる。またある日は、
「まことに申しわけございません」
 と、四、五人の幹部が深々頭を垂れている。こんな光景を憂鬱になりながら見ていると、それにオーバラップして、私は「みよちゃん」のことを思い出すのだ。
 みよちゃんは私が五、六歳のとき、我が家のお手伝いをしていた娘さんだった。
 彼女の家は、電車が京急の弘明寺駅を横浜方向へ少し走った線路沿いにあった。いま思うと、当時彼女は十五歳ぐらいであったろう。浅黒い、とがった顔だちで髪を後ろで一つにまとめていた。
 行儀見習いということで来たのだが、年齢のいかないみよちゃんは、私と姉たちと庭で遊んでいると、磨り減った草履をパタパタさせて、
「あたいも入れて?」
 と、頼んでくるのであった。
「みよちゃんは、子守っ子」
 そう言い放って私たちが隠れてしまうと、彼女は寂しそうに立ちつくした後、うつむき加減にもどっていくのだった。夕方になると、三畳の女中部屋の隅で、みよちゃんはいつもすすり泣いていた。母がなだめても、涙は止まらなかった。
 父が医者で豊かであったために、私は、高慢ちきで意地悪な娘であった。まだ幼いみよちゃんには、行儀見習いなど所詮無理で、お人形さんごっこや、おはじきやままごとで遊びたくなるのも当然なことである。
 しかし、こんなこともあった。私が廊下の隅で親に隠れてお菓子を食べていると、
「美那ちゃん、そんなことしてみずらいよ。よしな!」
 と、止めに来たりもした。「みっともない」ということを彼女は、「みずらい」と、表現するのだった。みよちゃんは、子どもっぽく見えても芯はしっかりしていたのであろう。
 私はなにかの弾みに、みよちゃんから注意された「みずらいよ」ということばを思い出す。彼女の言うように人間は、見るに堪えないことをしてはいけないのだ。これは、優しいようでなかなかむずかしいことだ。
 みよちゃんのうれしいときの顔を思い出す。お盆とお正月に、母からもらった仕着せを風呂敷に丁寧に包んでいさんで里帰りをする。
 いつも泣いてばかりいるので、頬の涙の跡が、冬などひび割れたように見えるのだが、母から薄化粧をしてもらうと、艶のいい娘らしい肌に変わり、目元に笑みをたたえる。こんなとき彼女はなんどもなんどもお辞儀をした。しかし、あの線路沿いの家は、どのように行くのであろう? 電車で見るかぎり、どこにも道がついていないのだ。私は不思議でならなかった。みよちゃんのお母さんが、どこかへ迎えに出ているようすもなかった。
 ある日のこと、ピアノのお稽古に母に代わって彼女がついてきてくれることになった。
 その日は秋日和で、暑くもなく寒くもなく、町が透明に光っていた。昼間の電車は、人もまばらで、私たちの右の席も左の席も空いていた。思い切ったように、みよちゃんが口火を切った。
「美那ちゃん、実家に寄らせてもらえないかねぇ」
 あの電車の窓から見えるみよちゃんの家に一度行ってみたかった私は、願ってもない申しでに賛成した。
「いいよ、あたしも付いていくよ」
 この返事を聞くやいなや、みよちゃんが弘明寺の駅で慌てて降りたことを覚えている。 
 二人でしっかり手をつないで、電車の轟音におびえながら、線路に沿った道を這うようにつたってみよちゃんの家に着いた。
 思ったより小さい錆びたトタン屋根の家は縁側がかしいでいる八畳一間の家だった。
 お母さんらしい人が無愛想に頭を下げたが、縁側の硝子戸は開けてはくれなかった。
 そのとき、みよちゃんが銀貨をぺたっと硝子戸に貼り付けて見せると、まだ二歳にならないくらいの弟が、銀貨を見つけて縁側に夢中で這って来た。ようやく桟につかまって立ち上がると、みよちゃんは戸をほんの少し開けて銀貨を握らせた。お母さんが遠くで両手を合わせていた。
 一瞬、照らし出されたようなその光景に、私は胸が熱くなっていた。私を見つめる弟の目が、無邪気に笑った。
 弟にお金を渡して、急に陽気になったみよちゃんは、せいせいした表情になり、
「ありがと。母ちゃん喜んでいたわ」
 と、歩みも軽々と細い赤土の道をもどり始めた。
 あの日からたくさんの歳月が流れているのに、私は時々、みよちゃんをいじめた後悔の念に責められる。
 もう、今ではあのもの哀しい線路沿いの一軒屋は、どこにも見あたらない。