<評論>
     シベリアに桜咲くとき
               高橋 勝


 この平成二十三年の師走の下旬に今年を静かに振り返ると、印象に残っていることがあれこれ思い浮かぶ。八月初めのあの暑いある日、東京両国のシアターXにて上演されたシベリア劇団との日露合同演劇、『シベリアに桜咲くとき』を観に行ったときのことも脳裏に焼き付いている。 なおこの「桜」とはロシア現地に花開く日本の桜に似たチェリョームハという花のこと。
 終戦後、「シベリア抑留」があったのはもう六〇年以上も前だ。六〇万人もの日本軍捕虜及び逮捕された民間日本人が、時のソ連独裁者スターリンによってシベリアに拉致され強制労働に従事させられた。今回の舞台は、そうした状況下で繰り広げられた日本人抑留者と現地ロシア人との交流を描く生活劇である。 本上演を報じたこの夏の「産経新聞」の記事によると、作者であるシベリア在住の女流作家ネリ・マトハノワさん(七十五歳)は、図書館で抑留体験を描いた画文集を見た瞬間、市電を建設する抑留者に罪悪感を覚えていた幼い頃の光景が蘇り、これをきっかけに故郷を思う抑留者と現地住民の触れ合いを群像劇として書き上げようと思ったのだという。
「慢性的な空腹や病気、いつ終わるとも知れない重労働……、そんな生き地獄のような収容所で自殺を考えていた若者は、川に落ちた収容所所長の一人息子を救い、所長の妻から感謝されて初めて生きる希望を見いだす。肺炎に侵され生死の間をさまよう男は、ソ連軍軍曹と老女の懸命の看病で一命をとりとめた。 念願の帰国の日、シベリアに桜が咲き誇る中で、ロシア人の娘と恋に落ちた若者は現地にとどまる覚悟を固めた」(産経新聞)。 このように、「物語は、独裁国家・ソ連にも日本人抑留者とロシア人との間で、希望のある温かい人間のドラマが生まれていた事実を描く」(同新聞)のである。私は、こうした過酷な運命のもとに追いやられていった日本人が、それでも現地ロシア人に温かな眼差しで観られてしまうような生き方ができたのはなぜなのか、劇場を背にして考えさせられた。
 作者マトハノワさんの観た画文集は、今年九十二歳の山下静夫氏という抑留の経験を持たれた方が、後に自らの体験を想い出して描いたものである。氏はパンフレットのなかでこう述べておられる。「抑留当初、自分を見失いかけていたが、ロシア人将校に、『日本人としての誇りはどこへやった』と叱咤され(略)、みんなで生きて日本に帰るんだと、仲間に呼びかけ励ましあった」と。 この話は、精神医学者であったV・E・フランクルがアウシュビッツ収容所で妻と二人の子どもを殺されたうえ、自らも人間の極限状態を体験し、また収容されている人間を真摯に観察して、その時の出来事や自らの思いを綴った著書、『夜と霧』のなかの次のような一節を思い出させる。 いかに絶望的な状況下にあっても、生きる希望を持つことさえできれば、その人はそうした状況に打ち克つだけの生を獲得してしまえるのだと。確かにそうだろう。今日の混沌として拠り所を見いだすのが難しい状況の中にあってさえ、かすかな夢や目標さえ見いだせれば、それに向かって生きる力が心底から湧き出てくるのを感じるのは私たちがしばしば経験することだ。 当該の日本人にとっても、母国日本への帰還の望みは生きる唯一の支えになっていたに違いない。しかし、ロシア人から「日本人のお陰でシベリアがこんなによくなった」(同パンフレット)と感謝されたり、この劇作者から温かな眼差しを向けられたりしているのは、そこに尊敬に値する日本人独自の生きざまがしっかり存在していたからだと考えざるを得ない。
 戦後の日本は、それまでの日本独自の伝統文化や精神といったものが悪の根源だと槍玉に挙げられ、GHQにより恣意的に否定された。それに代わって新たにアメリカ流の民主主義に舵を切るよう強いられてきたのである。この流れは今日に至るまで途切れることなく続いている。この結果として辿り着いた今日の姿は、女性の“強さ”にも現れている。 若者の男性が草食系などと揶揄される一方で、女性のほうはこれまで男性の仕事といわれてきた3Kの作業現場にも積極的に関わるようになったし、キャリアウーマンとして独身を貫きながら男性をも凌ぐ仕事を精力的にこなしている人も多い。
 男女の恋愛関係においても女性上位の傾向は強くなっている。これは、今日の女性が相手の男性に対して絶対的に主導権(イニシャチブ)を握ろうとしている行動様式からも伺える。
 何事にも自分のほうが先回りして仕切ってしまい、その優位に立った状態で相手を思うがまま操るのだ。例えば、これまで女性との経験がほとんどない実直なある男性が、何かのきっかけで、ある女性と知り合いになり、相手のことを何も分からないまま交際に及ぶという事例を想像することができる。長年独り者の彼は、相手にしてもらえるというだけで忘我の喜びに浸りきり、貴方には他の男性にはない何か光るものがあるわ、私はそこに惹かれたのよ、などと歯の浮くような言葉を露ほども疑わず、誘われるままに深入りしていく。片や彼女の方は、若くして子どもができてから直ぐに離婚し、既に社会人になっている二人の子どもを持つ寡婦である。 男性とは離婚以来彼の他に何人もの人と関係を持ってきた。ところが今に至るまで寄り添いあう相手がいないためか、一度だけ夜を共にしただけで、あたしと一緒に住まない? 今すぐ返事して、などと幼子が遊び友達を誘うような顔つきをして彼に鋭い眼を光らせる。だが、彼には、いくら好きでも身を賭してまでこんなに早く一身上のことを口にする女の人ってどうなんだろう、少しは考える時間が必要じゃないのか、と感じ取れる良心が僅かに残っている。彼の心情をいったん察してしまうと彼女はあれこれと攻撃を執拗にしかけてくるが、無理だと悟るやそれとなく彼を避けるようになり、あげくには見て見ぬふりをして捨ててしまう。 それでも彼女に骨の髄まで取り憑かれてしまった彼は、ことの本質に気づかぬかぎり、彼女への恋情をますます募らせてゆき、愛に飢えた状態に耐え切れなくなるや胸の中で声にもならない叫び声をあげ、蛇の生殺しの状態で布団の中をひとり悶々と転げ回るのだ。これは明治時代に樋口一葉が廓に素材をとった『にごりえ』の世界ではない。今や、メールのやりとりでどこにでも観られる男女のあり方を示す一光景ではないか。
 このように「私が」、「俺が」と、あくまでも個人の権利や我だけを主張するようになってしまった戦後民主主義社会の象徴的な形態に対し、戦前の日本人にはもっと自分と相手との〈関係〉に重きを置き、その場その場で相手との関わり合いを大切にし、お互いを支え合い、なにかを共に築き上げようと、自らを謙(へりくだ)る女性があちこちに観られていたに違いないと想う。
 関係に生きるということは、まずは相手の立場に立とうとする姿勢であり、その相手のあり方に自らを重ね合わせ、人の痛みを自分の痛みとして感じ、必要とされていることがあれば優しく応えたいというような振る舞いであろう。自分のあり方によってどこまでも相手を生かせる行動ができるということなのだ。こうしたあり方を日本の伝統文化のなかで見いだすとすれば、典型的に体現している「思想」に武士道というものがある。
 江戸時代中期、鍋島藩士山本常朝は聞書『葉隠』で、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一句を語っている。限りある自らの死を絶えず見つめることにより、己の生をその時その時真剣に生きる存在であれ、と戒めた言葉である。世の中が安定していた時期だからこそ、武士にとってこうした物言いが必要だったのだろう。ところで、この場合、常朝自らが家臣の身であるのに、敢えて「主君のため」と語らなかったのはなぜなのか。その裏には「人のため」という思いが隠されていると考えられる。つまり武士の生きざまをもっと幅広く、一人の人間の在るべき姿として現実的に捉えていたのだ。そうであるなら、死ぬまで、「身近な」他人のために生き抜けという逆説的な解釈ができる。そうすることで始めて自己の存在に価値を付与できると考えたのだ。このような生き方が身に付いていれば、自藩に限らず如何なる外(と)つ国に行こうが、同じように己の生を全うできる。確かにこうしたあり方は、第三者から観れば限りなく愚かしい生き方に映るかも知れない。だがこの思想は、「私」よりも他者のために生きられればそれで良とする武士の生き方を意味しているのだ。こうした時代的な人と人との関係性を今日の観点から捉えるならば、それは広く我が国に浸透している「戦後民主主義」社会のあり方とは真っ向から対立するものと言えよう。
 今回の舞台において、「すべては時とともに到来する」と語るロシア人軍曹の言葉は、日本人抑留者を勇気づけ、示唆に富んだものだ。人と人の繋がりがあればやがて奇跡は本当に起こり得るだろう。それが日本人と現地ロシア人との草の根の繋がりであっても同じである。人と人との関係、これを大切にできるのもまた人間の心ひとつである。(了)