〈随想〉 志村ふくみの世界から                        高橋 勝
 
 先頃、六月の最終日曜日、NHK日曜美術館で、「今日の〝色〟ごよみ 染織家志村ふくみの日々 冬から春」という番組が放映された。
 私が志村さんを始めて知ったのは、高校の現代国語の教科書に採用されているエッセーを扱ったときだった。作品名は覚えていないが、桜の色の生命は、花にあるというよりも、花に色を行き渡らせるまで木の内部に息づいているというような内容ではなかったと思う。そのときは若々しい顔写真も載っているのを覚えているので、今回、そのイメージで画面に向き合った。
 久しぶりの対面に、私は好ましく裏切られた。シルバーの髪を染める訳でもなく、腰が曲がっているわけでもなく、話し方もやさしいおばあちゃん口調のなかに、凛とした雰囲気が漂っていた。お年は、八十九歳だという。
 映像は、染織の作業様子、一年前に娘さんと立ち上げた染織学校の様子、バックミュージックとともに展示される結城紬で織った着物の数々、さらにそのなかにこまごまに挿入される志村さんの語りといった構成でできていた。もちろん季節の変化として冬から春に推移する自然や風物が、京都嵯峨野を舞台にふんだんに散りばめられており、映像だけでも目を奪われるものだった。特に志村さんの生の声は、ぜんぜん肩に力が入っているとは言えない口調であり、自然と日本人との係わりについて語ったもので印象に残った。
 ―日本には紅葉狩りとか月見とか雪見とか、季節をほんとに愛でるんです。それと万葉集から古今集、新古今集のなかにうたわれている自然というものは特別にどうとかいう理屈はなくて、ただ花が咲いている、ただ散っている、雪がきた、そうしてその雪がくる前にはこうだった、鶯が鳴いたから春が近いとか、そんなものばかりをうたっているのに、そこに私たちは何とも言えない世界を感じます。それは、言葉でも言えないくらい日本人の自然と融合している魂がそこにあるからだと思う。そこまで自然のことを見分けたり、驚いたり悲しんだり、自分の想いを託したりする民族はあるのかしらと思うくらいです。
 これを踏まえ、現代日本人のあり方を、自然との関係でつぎのように述べている。
 ―私たち人間の我欲とかいろいろなものを少しでも利用して自分達の生活に楽にしようとか、そういうものがいっさいなく、むしろそれに黙々と従っている植物とか動物とかというほうが、魂の位は高いことを、植物を崇めなくてはならないことが分からなければ、人間はもう救われない、このままでは。今警告を発しているのが蓮糸かもしれない、早く目覚めよと。あまりにも逆行している、自然から。だからもう一度、流れの根本を変えなさいということを伝えているのかもしれない。
 なお、この「蓮糸」とは、蓮の茎から取り出した希少な糸のことであり、同じ植物のある種を煮出した染料によって染める糸を指している。この部分の語りはちょうどその作業をしている場面でのことだった。
 この二つの対照的な語りからは、伝統的な日本人の自然観と、自然喪失との関連でとらえた現代日本人の人間観と、それへの警告が味わい深く述べられているのが分かる。今日の「私」を尊ぶ個人主義的風潮は、共同社会の和を尊ぶことを忘れさせ、自然と融合する体験から離反させ、逆に植物や動物は人間のために存在していると錯覚させ、思うがままフロンティアという名の下に征服し、破壊する対象に変質していると言えるのではないか。
 考えてみれば、戦後日本の政治、学校教育、官僚、マスコミ、経済産業といった去勢を強いられてきた空間というものは、今日でも執念深く根を張って生き続け、まさに行き着く地点まで到達しようとしているようだ。その典型がグローバリゼーションを推進する大合唱である。わが身の既得利益と権限だけを追い求め、自らが生き残るためには日本固有の伝統文化や歴史や社会のあり方を無為に帰し、あるべき国民としての恥じらいを喪失しているとしたらどうすることができようか。国家ぐるみで我執に囚われた世界に生き続けていれば、いつしか国民はそのことに気づかないまま、他人や自分以外のよそ事には関心を示さなくなってしまうだろう。
 また、エンディングのところで話された次の語りも胸に響くものだ。
 ―結局は、植物をある程度敬って、その植物から色をいただく。その植物に対して、自分達がどういう向き合い方をしたらよいのか、植物が喜んでくれる良い色を出すことが復活かな。だから古代は植物染料、植物染料とは言わないけれど、草木で染めるのを祈りの染めと言っている。なぜそんなことを言うのかというと、みんな植物は薬草なんです。薬草で染めて、それで着たり、身にまとったりすることによって、悪から、病気とか疫病とか、いろんなことから身を守る、そのために染めていたらしい。だから祈りながら染めた。祈りは最高の科学であると書いてある。すごいなぁと思って。祈りの気持ちがなくて植物染料を使ってはいけない、本来は。もう今の人は、現代人は忘れているのではないか。
 この部分は、先に語られた、植物の生き方が人間より魂の位が高いという理由を教えてくれているような気がする。つまり、この場合の植物は、その地に確り根を張って周りの自然と融合し、単に光や土や水分や空気などから養分をもらうだけで、自ら薬草になる成分を作り出しているのである。この意味においても、一方で「私」の主張ばかりを押し通したがる現代人は、それだけ自然から離れてしまい、それゆえ素朴な宗教心を取りこぼしてしまい、挙げ句にはその空隙な孤独に耐えられず、何か外部の存在に自らの全てを依存させずには居られなくなってしまう。それゆえ当然の結果として、自ら何かを産み出したり、作り出したりすることができなくなるのである。
 以上のような語りを聴くと、現代がたとえどのような社会状況にあるにしても、人間が人間らしく、あるいは自分らしく誇りある生を取り戻したいと願うなら、事に当たってはその都度と、まずは自らを振り返るところから始まるのではないだろうか。その際に、自らの鏡とできるのが、今日では大変難しいかもしれないがそれゆえに、草木や動物などの自然に生きるあり方、あるいは古代人にみられるような心ある生き方と言えるのではないだろうか。そのような生を敬い、そのような生に少しでも近づけるようにと、なにか警告が聴こえてくるような気がしてならない。