それでも、かわいい
                     中井和子


 時計は午前二時を示し、私はあわててベッドに入った。間もなく、うつらうつらと半ば夢見心地になってきたとき、私のベッド下から、キャバリア犬、雌のメメが苦しそうな息づかいをしているのが聞こえてきた。私は跳ね起き、眠気がいっぺんに吹き飛んだ。
「どうしたの? どこか苦しいの? お話ができるといいのにねえ……」
 メメはちらと私を見て、また切なそうに息をしている。私はどうしらよいのか、ただメメの体を撫でてやるだけであった。隣のベッドから夫の気分よさそうな寝息が聞こえ、起こさないように気遣う。このところ、夫はメメの世話でお疲れ気味だ。
 メメは五月で十五歳になる。半年前の二十三年秋から後ろ足が萎えて、今では腰もやせ細り、足には床擦れができるようになった。手当てをしてよくなっても、また別の所に出きて痛痛しい。
 メメが我が家に来るまえには、三歳のポメラニアンがいた。ある日、扉の隙間から飛び出して車にひかれてしまった。夫はペットロスで嘆き悲しんだ。同じ市内に住む息子が、父親のようすを見て、友人から生後半年のキャバリア犬を貰い受け、置いていった。白と茶色の長毛で、耳は長く垂れている。体重は七キロで、まん丸の黒い目は、たちまち夫の心を癒し、前のペットの影を消した。

 メメは見知らぬ家に来て、まる一日声を発しなかった。臆病な性格なのだと、私はそう思ったのであったが……『お手』を教えても「そんなこと、やってられないわ」とばかり、知らんふりだ。とうとう『お手』の芸をすることはなかった。それでいて、おやつを目の前にして『伏せ、待て』はすぐやってみせるのだから、案外計算高いのかしら、など、人間の穿(うが)った目でみたりした。
 しかし、メメが我が家にきてから一年後、夫が交通事故に遭って九死に一生を得た。リハビリの散歩には私とメメがお供をした。どうしても遅れがちになる夫を待ち、メメはリードを持つ私の足を留めるのだった。私が促してもメメの足は根が生えたようにびくともしない、夫が追いつくのをじっと待つのだった。夫はそのようなメメに励まされ、癒されてきた。
 しかし、そのメメが信じられないような行動をするのだから驚く。
 いつもの散歩道に一部たんぼ道がある。四季折折に変化する田んぼのただずまいに、私はのんびり一句をひねりながらメメと歩く。その田んぼ道の出口の一角に住宅があって、たまに車が出入りする。その細い道で車の姿を見ると、とたんに私の句は霧散し、緊張で体が硬くなる。メメが車に猛然と飛び掛っていくからだ。私は両足で体重十五キロになったメメの体を両足で挟み込み動けないようにして車をやり過ごす。リードだけでは、私がメメの力にひっくり返されてしまうからだ。
 メメにとって、この道は自分だけの道であり、無機質で戦闘的である侵入者を許せないのかもしれない。
 また、公園の中で小型犬をみつけると、メメは突然、私の手からリードをもぎ取り、猛然と走って行って襲いかからんばかりに吠えたてるので、私は顔面蒼白になり、なんという性質であろうかと愕(がく)然とする。
 キャバリア・キングチャールズ・スパニエルは、原産国はイギリスである、イギリス王室に愛されてきた猟犬で、その本来の姿を復活させようとして作り出された犬種であるという。体重は八キロ、大型の種類は十三キロが標準である。
 メメは十五キロの肥満児になってしまったが、まるで獲物を狙っていく猟犬の姿にも似て、そのDNAのせいであろうか、など首を傾げてしまう。 
 しかし、行きずりの同性の雌にはけんか腰で吠えるのに、雄にはお澄ましをするからおかしくなる。
 早い時期に訓練所へ預けてみては、と溺愛する夫に進言してみたが、即、却下された。
 もっとも、野良犬をドッグトレーナーに預けた友人の話を思い出して、私は強く言えなかった。
 友人が外で飼っている犬の餌を、柴の野良犬が来て食べてしまう。友人はその野良犬を捕まえて保健所へ引き渡そうとした。通報を受けて二人の所員がやって来たのだが、野良犬はわが身の危険を感じ取ったらしい。野良犬は後ろ足で立ち上がり、前足で友人に「助けて欲しい」と懸命に懇願する風であった。心優しい友人は、犬が不憫になり、責任を持って飼うことを所員に約し、そして、予防接種、不妊手術などをして飼い犬としたが、すぐ逃亡してしまう。犬小屋の狭い鉄柵をどのようにして抜け出すのか不思議なのだが、逃げ出しては家の見える範囲でうろついている。近所迷惑なので友人は捕まえに行くのだが、それがまたたいへんな一仕事なのだという。そこでドッグトレーナーに躾を頼んだ。しかし、トレーナーの言うことだけ聞いて、逃亡ぐせは直らなかった。それは野良犬の性なのだろうか。

 時計はもうすぐ午前三時になるところである。メメは少し楽になったようだ。
「もう、大丈夫かな? 暖かくなったら桜見物にドライブしようね。がんばるのよ」
 毛艶は失せ、容色は衰えてしまった寝たきりのメメであるが、寂しくなると吠えて家人を呼び、用を足したくなると、また訴える。我が家は、ただいまメメの介護に振り回されている。
 それでも、ペットは無条件でかわいい。