評論
    『すべて真夜中の恋人たち』を読んで
                     高橋 勝

 『叙情文芸』という読者投稿季刊誌に、〈前線インタビュー〉の記事が毎号載っている。この冬号(第141号)には、二〇〇八年に芥川賞を受賞した川上未映子さんが登場し、これまで創作してきた小説や詩、それに昨年三月に起きた東日本大震災などについて語っている。そのなかで、初めての長編恋愛小説という『すべて真夜中の恋人たち』(二0一一年発表、講談社刊)は、特に興味を誘われる内容だった。
 例えば次のような語りが見られる。
―― 一方で、冬子の友人、聖はキャリアを積んで次々と男性と付き合います。これは冬子の状況と対照的ですね。
川上 大事なのは、冬子と聖は全く違う人生を歩んでいるように見えても、今の社会のなかでは二人はそっくりさんであるということなんです。二人とも満たされていない。どこにいけば幸せになれるかも分からない。何をしたら恋をしていることになるのかも分からない状態で、本質的には同じなんです。機械的にたくさん男と寝れば、自分が「何か」でいられることができるとか、恋愛すれば「何か」になれるとか、誰かと関係性を持っていれば「何がしか」であるとか、そういう外から見た価値じゃなくて、内側でジャッジしてもいいんじゃないかという気持ちがあるんですね。だから、いろいろな女性の対比を乗り越えたところにある均質化がテーマですね。(以下略)
 ここから、今日に生きる「女性」の生きざまが、この小説にはリアルに描かれていることが伺える。ここには、現代に生きる大人のあり方の根本的問題が提起されており、創作における著者の裏の思いが告白されている。その意味から考えても、この小説は単なるエンターテインメントの読み物に終わることなく、人の生き様を真面目にとりあげている純文学と捉えることができると思う。そこで、この小説に登場してくる人物がことごとくそうした虚無の状態になっているのはなぜなのか、その根源を探ってみたくなった。
 石川聖は、主人公の冬子と元の会社で同僚だった、三十代半ばの同い年で独身キャリアウーマンである。彼女は〈インタビュー〉で見たとおりかずかずの男性とつき合う。そのあげく最後はある男性との間に子どもを宿す。しかし子どもを望まない相手に何の未練も残さないまま、聖はその男と別れ、一人で育てていこうと産む決意をする。この辺りの男性との事情について聖の述べる言葉がある。「(略)寛大っていうとなんか偉そうだけど、あまり色々と面倒臭いことを考えないで済むっていうか。そういう相手となら滅多なことじゃ傷つかないしね。楽しいことだけを共有してればそれでいいんだもの」第5章)。
 あるいは、「そう。これっていつからなのかなあ。もう思いだせないし思いだす気もないんだけど、感情とか気持とか気分とか――そういったもの全部が、どこからかが自分のものでどこからが誰かのものなのか、わからなくなるときがあるのよ」(同、第5章)とも。また、結婚して主婦になっている、高校の親友で同級生の早川典子も事態は同じである。二人目の子どもができてから夫とはセックスレスの関係になっている。気がついてみれば、夫はいつの間にか浮気をしているし、典子もそのことを知っていながら咎めることもできず、それなら自分もと、高校時代の同級生の男性と密会に耽っている。彼女たちに共通しているのは、身体の内側から疼いてくる欲望には逆らわず、気ままに人生を楽しもうと面倒を避けて生きているだけで、どこか決定的に欠如している印象を与える面にある。だから、情事にいくら耽っても事後には嫌悪感や倦怠感にとらわれるのみで、精神的に満たされることも、幸せを感じとることも一切ないのである。
 ここまで観てくると、聖と典子たちの空虚な心のありようが細やかな心理描写でしっかり描かれているのが分かる。このため、読者はこうした小説を読むことによって、自分に同じような体験がなければ覗き見するような小気味よいアバンチュールが、また同様に生きている場合は安心感が得られるのだろう。後者では、わたしだけじゃないんだ、みんながそうなんだ、そうだ、それでいいじゃないか、という思いを抱かせてもらうだけで救われる部分があるのかもしれない。そうした意味合いで理解するなら、確かにこの作品はうまく書けていると言えるだろう。
 ところで主人公の入江冬子のほうであるが、彼女は高校時代に同級生のボーイフレンドと行きずりの過ちを一度冒したけれど、それいらい性体験は持たず、「ストイック」に一人で生きてきた。会社での人間関係の煩わしさに耐えられず、逃れるようにして自宅にこもり、フリーランスで校閲の仕事をしている。金銭的には生活するには十分過ぎるほど稼いでいるけれど、心理的には不安定で孤独な世界に閉じ籠もりがち。そのため、外部の人間とのつき合いも最小に抑えている。
 あるとき仕事の合間に、少しでも外に出なくてはと、冬子は新宿のカルチャーセンターに行ってみる。そのときちょっとした事件があり、三束という男性と知り合う。彼は、独身で高校教師、五十八歳の男性だ。それをきっかけに何気ないやりとりを繰り返すようになり、少しずつ彼に惹かれていく。そして自分の好きという気持ちを告白し、二人は恋人同士の関係になる。少なくとも、冬子はそう思っている。その後、典子の、夫との関係や級友との不倫の話に刺激を受け、冬子は動揺し、三束との性的な結びつきを始終妄想するようになる。次第に高鳴る胸の思いを制止できなくなり、セックスの伴った二人の関係になりたくてしかたがないと三束に電話で告白してしまう。
 最後に、冬子の誕生日に一夜をともに過ごす約束をするが三束は現れない。冬子は一睡もせず、夜を徹して待ちわびる。だが明け方になってもやってこず、後日手紙が届くだけ。そこには、嘘をついていて心の痛みを覚えていたこと、つまり自分は高校教師ではなく食品工場に勤めていたのだが数年前に職を失っていたのだ、といったことがくわしく書いてあった。それを最後にして、冬子の前に姿を現すことは一切なくなるのだ。
 この場面での良心的な態度には、三束みたいな中高年の男性が今の世に存在しても不思議ではないとの思いが読者に過ぎるかもしれない。だが、他の場面では自分を出すことも一切せず、ひたすら寡黙で自分の意志を現すこともなく、ただ相手の女性に「大人」の対応をするだけの男性が現実にいるとはとても想像しにくい。たとえ演技を通していたとしても、彼は冬子にとって都合の良いときにいつもそこにいてくれる便利屋にすぎない。冬子が自分はこの世で独りぼっちなのだという思いを深めるとき、あるいは内面に突き上げ、波のように盛り上がる切ない性の衝動をぶつける相手として存在させられているだけに見えるのだ。
 そんな三束に対して、彼のことを冬子は何も知ってはいず、その後も一貫して彼という人物がどのような人なのか知ろうともしていない。例えば次のような意識が描かれていることからもこのことは明瞭である。「わたしは聖のそんな話をききながら、駅の改札を抜けて階段のほうへ歩いて行く三束さんの後ろ姿を思いだしていた。目を閉じて、顔を思いだしてみた。全体にまんべんなく入ったしわと、もうすこしくっきりとしてみえる目尻のしわと、そこにあった小さな傷のことを思いだした。低くもなく高くもなく、そんな特徴的でもない声なんかを思いだしてみた。わたしが思いだせる三束さんは、頭のなかをどれだけ探しても、そのみっつしかなかった。/わたしは三束さんが何歳なのかも、したの名前も、どこに住んでいるのかも知らず、そしてつぎにいつ会えるのかということも何もひとつもわからないのだと、聖の話をききながら、そんなことをぼんやりと思った」(第5章)。また著者は先の〈インタビュー〉で、「そういう仕事(校閲者)をして、すごくストイックに生きてきた冬子にとって、この恋愛は正しいのか、間違いなのか、どっちともつかず、すごく苦しい。初めての恋愛をして自分がどう変わるのかという部分もパラレルになっています」と述べている。
 これらは何を意味しているのだろうか。相手の男性はとてつもなく危ない人物であるかもしれない。それにもかかわらず、いやそのことさえ意識せず、自分は自分の今の「好き」という気持だけを大切にして、とにかく前向きにやっていきたい、その結果、自分がどうなるのか知ろうともせず、むしろ知らないまま自らに降りかかる運命を試し、待ち望んでいるとも考えられるのだ。それが自分を持すということなのだろうか。そうだとするなら、現実は更に過酷で哀切きわまりない世の中になっているということにならざるをえないのではないか。つまりこの冬子は、今は何とか地に足を付けて踏みとどまっているけれど、やがては聖や典子の生きざまと同質の、虚無的状態に陥る可能性を孕んだ、薄氷を踏んでいる状態にいるとの印象が残ってやまないのである。
 このあいだ、釈迢空(折口信夫)の詩を読んでいたら、次の作品に出会った。
   葎
      釈 迢空

 しづかなる夕に 出でゝ、
 ほのかなる道を 往き来す。
 かそかなるもの 来寄りて、
  我が肩に ふれつゝ過ぎぬ―。

  わが耳や 何をか聞きし。
  我が心知らぬ ことばを―‥

 さゝやきて ものぞ去りにし―。
  しづかなるゆふべの道に、
  かな葎 一つ 穂を揺る   (『近代悲傷集』角川書店)

 折口信夫は、柳田国男、宮本常一とともに、日本の民俗学、古代文学において、偉大な足跡を残した。だがそれだけではなく、折口は釈迢空の名で詩人、歌人としても生き、名を残している。ここに引用した一片の詩は、古代語で創作する折口の詩歌のなかでは、言葉の面からも比較的分かりやすい部類に入ると思われる。しかし内容的には、万葉の心を受け継ぐ日本人の心を歌っており、現代人には分かりにくいかもしれない。
「しづかなる夕(ゆうべ)に 出でゝ、」とは、必ずしも夕べが静かな情景になっていると限定する必要はなく、むしろ自らの心持ちが静かになっていることを示している。そうして外に出てみる。次の「ほのかなる道を 往き来す。」では、静かであるから、道はほのかなのだ。ほのかであるからこそ、心が落ち着く。そして豊かになれる。そのような心持ちで往き来するとは、自分の歩く道と語り合い、親しみあうことを意味している。ついで、「かそかなるもの 来寄りて、」と続ける。かそかなるものとは、はっきりと捉えることはできないものだ。しかしそれは、単なる物質的なものではなく、自分にとって何かかけがえのない心的に大切なものだろう。過ぎ去って二度と戻ることのない人の情けや親の恩、あるいは自然の恵みや運や縁などが含まれるだろう。そのかそかなるものが、来たり寄りてくるのだ。これは、自分が欲しくてたまらず、いくら手を伸ばして掴もうとしても掴めるものではない。自ずと自分の方にやってくるから、かそかなるものと認識できる。そしてそれが、「我が肩に ふれつゝ過ぎぬ―。」となる。なぜ肩にふれながら過ぎてしまったのか。目に見えないからである。大切なものは目に見えず、掴まえることはできない。
 第二連にいくと、「わが耳や 何をか聞きし。 我が心知らぬ ことばを―‥」と、それが何であったのか、自分の耳を短絡的に信じることなく、謙虚に疑っている。つまり、あれは何だったのだろうかと、よく聞こえず、分からなかったものを分かろうとして、自らに問を発しているのだ。聞こえないものを何とか聞こうとして、全身全霊で過ぎ去った言葉に意識を集中させている。そうすることによって始めて、大切なものは聞こえてくる。理解できる。
 「さゝやきて ものぞ去りにし―。」には、自らのすべてを目とし耳として当たったので、それが何であったのか聞き分けることができたのだが、一瞬にしてこの大切なものとの交流は消えてしまったことが描かれる。最後に、「しづかなるゆふべの道に、 かな葎(むぐら) 一つ 穂を揺(ゆ)る」と歌われる。自分の魂が大切なものと触れ合い交流した後には、自分の前にある情景はとても美しいものに映る。穂を揺する草木は、自分の喜びの、あるいは悲しみの思いに感応して揺れ動いている。
 以上がこの詩の概略である。このなかで、この詩の肝(きも)になるのはどこにあるのかと考えると、それは、第二連の「わが耳や 何をか聞きし。 我が心知らぬ ことばを―‥」のなかにあるのではないか。自分にとって、はっきりと見定められないもの、しかも大切なものであるなら、自分の目をよく見開き、自分の耳を凝らし、それが何であるのか、その本質をあるがままに、辛抱強く捉えようとしている姿がそこにはある。ここで注目すべきは、今日の科学技術や学問などに頼らずとも、いや、そうした諸々の物事に囚われずに一人の人間として直にことにあたっていることだ。
 三束に対する冬子の視点は、最初から最後まで、自分に都合のよい一人称で貫かれている。それゆえ、三束という男性を自分との関係において、喜んだり、苦しんだり、悲しんだり、時には強引な欲望を丸出しにしたりしながら生きて反応する人間として捉えられているとは考えられない。それは、相手を心ある存在として見ていないのと少しも違わない。そのため、二人の間にドラマの意外な展開は期待できず、「愛」も深まらない。結局はいつか意に添わない態度を取られたことを契機に、聖や典子と同じように、離婚や背信という形によって、相手を棄てて逃げていくだろう。
 そうなってしまうのが現代人であると仮定するなら、そこに欠落しているものはいったい何なのだろうか。この小説から見る限り、それは、自分が何かをやって失敗し、傷つくのを恐れるあまり、目が内側に向くだけで自分が大切と思えるものや必要なもの、あるいは生きていく上で出会う自分に関わりのある存在に対して、自らの目や耳をしっかり傾け、分からないものを分からないものとして見たり聞いたりしようとする謙虚な心持ちではないかと思う。(了)