スマートフォン
                   高橋 勝

 先日久しぶりに東京に行った。新宿まで湘南新宿ラインで乗り換えなしの一時間余り。丁度通勤時間帯を過ぎていたためか、その間シートに座ることができ、雑誌を読むことにした。次の駅で多くの乗客がどっと流れ込んでくる。空いていた隣の座席もツカツカとやってきてどっと塞がれる。二十歳前後の学生ふうの女性。
 座るやいなやバックから何ものかを引きずりだし、左手で機器を握り、右の人差し指で画面を操作し始める。スマートフォンだ。私は別に興味があって注目していたわけではないが、何かそこに一途な空気が漂っているのを感じ取り、何気なく気にしていた。
 活字から目を離し、周りに目を向けると、同じように掌に握りしめられている金属の小箱に見入っている若い女性が入り口付近に固まっていて動かない。時間を惜しむように没頭しているけれど、一体どんな楽しいことを見ているのだろうと、スマートフォンを持っていない私は訝った。

 考えてみると、この便利なメディア媒体にまつわる事件がさまざまに指摘されている。駅のプラットフォームで歩きながら見続けていて線路に落ちて電車に轢かれそうになったとか、自転車に乗りながら夢中になって交通事故に遭ったとか、あるいは高校生特に女子高生の一日の平均利用時間が四、五時間にも及ぶなどと報道されたり、出会い系ラインに寄り道したばかりに性被害に巻き込まれたり、将来を棒に振るような命の危険域まで追いつめられたりしている。
 だからスマートフォンを持つのは大反対、と言いたいわけではない。持つ人の自覚と責任で利用すべきであると主張したいところであるが、周りの影響もあってか、それぞれが持ってみて、ある程度の痛みを体験し、自分なりの結論が出せれば良いとも考える。しかし今だからこのようなことも書けると思うのだが、時間の過ごし方、ないし生かし方がその人の人となりを形づくっていくことは疑いない。それはまた、当然のことであるが人の寄せ集まりである社会のあり方や国柄にも当てはまる。

 これもいつだったか電車に乗っているとき出会ったひとつの情景である。用事が済み、上野駅から午後早めの電車に乗った。乗客は少なく、一車輌に数人しかいない。同じ側に座っていた妙齢の方が無心の面持ちでうつむきながら両手をかすかに動かして何かをしている。私は、子供のころよく目にしていた女性の姿とイメージを重ね合わせ、編み物をしているのではないかとてっきり思い込み、高鳴る想いに彼女のやっているものに目をやってみる。その昔風の女性が何をやっていたのか、私は呆気にとられ、息が止まりそうになった。
 編み物を時間も忘れてひたすら続けることには、想う人やわが子に襟巻きや手袋などを着せてあげたいと大切な人たちのことをひたすら思い続けたり、無聊を取り繕ったりする場合もあるだろう。いずれの場合であっても、外部からの情報侵入は風の音や雨音であったり、日の光の増減であったり、猫の鳴き声や人の話し声だったりするくらいで、ほぼ無に近い。その結果、頭脳はそれだけ自分の想いや考えで満たされているか無心のままで、自分なりに地に足のついた活動をしているか、休ませていることになる。
 実はここにこそ人の品性を左右する根本的なあり方が垣間見えるのではないか。今日は、日々の生活で、僅かの時間でさえ、無聊を慰める物質が子供部屋にさえ溢れている。そういうものに慣れてしまうと、自分で自分の時間を持つことが皆無になりかねない。自分を無の状態に置いたり、その時間のなかで考えを深めたり、自分に向き合い新たな何かを産み出すことなどができなくなり、結局個性を磨くことから遠ざかり、もともとあった特性まですっかり擦れ切らせてしまいかねず、単に見た目のきれいなステレオタイプの整形美人や、聴く音に心の陰影や起伏の感じられない記号と化した音楽などが溢れてくることになると考えられる。
 音楽を聴くのに、あるCDの製作レーベルでは、何万曲か何十万曲かのクラシック音源を月二千円払って契約すれば、パソコンより好きな曲を聴き放題という方法があるし、あるいはパソコンから好みの楽曲を取り出して二センチ四方のチップに、CDに換算して六〇枚分を詰め込み、きれいな音で聴けるという方法もあるという。しかし、そんな無限とも言える曲目の中から本当に聴きたいものや、まして繰り返し聴くに価するものが果たしてどれくらいあるのかという問題や、たとえたくさんの聴きたい曲があり得たとしても、一日の生活時間のうち、リスニングに割ける時間がどれだけあるのかといった、生活と音楽との関係で捉えなくてはならない問題も指摘できる。
 さらに考えを敷衍すれば、たとえさらなる技術革新の展開によって、似非自然物が本物と見分けできなくなったとしても、人間はそうした物や流れに乗れば乗るほど、反比例的に何か失ってはならない大切なものを少しずつ取りこぼしていき、本来の意味での豊かな人生をいつの間にか取り違えてしまい、そのことに気づかなくなっていきつつあるとしたら、大きな危惧であるに違いない。

 他人事のように書き綴ってきたが、自身のことを考えてみると、まるでこれまでの自分は火に入る夜の蛾のようなあり方そのものであったのではないかという思いも過ぎる。しかし今はただ、たとえパソコン中毒の気がある自分でも、こうした流れに目を向け、意識しつつ、日々少しずつでも自分に鞭打って本来の自分を取り戻していきたいと願う。世界的潮流であるグローバル化の波はこの日本をも呑み込もうとしている。どこまで踏ん張れるのか、あるいはその気があるのか、産業経済社会や国政のあり方に憂慮を禁じ得ない。個人としてこうした状況下でいかに対応すべきなのか、大きな課題であることは疑いようがない。