足るを知る
              石川のり子

 錦秋庵の8畳の茶室には、鴨居に直径30センチほどの銭の形をした壁掛けが掲げてある。丸い板に5文字が彫られ、中心に「口」がある。上に「五」、下に「疋」、左に「矢」、右に「隹」の文字があり、口と組合わせると、「吾・足・知・唯」の四文字になる。
 以前、京都の竜安寺でこの形をした蹲(つくばい)を目にしたことがあった。直接、手や口を清めたわけではないが、真中の口の部分に細い竹から水が流れ落ちていた記憶がある。
 先生はこの蹲を模して、日光杉で彫られたとのことで、見事な出来映えである。私は茶室で正座して見上げるたびに「ワレ・タダ・タルヲシル」と、口の中で唱える。すると、おぼろげながら千利休の茶道の理念が感じられる。
 この言葉には思い出があった。半世紀ほど昔になるが、お茶の手ほどきをしてくださった先生宅の玄関の壁に、「知足」と書かれた色紙がかけてあった。義母と同年の先生は、
「息子が書きましたの」
 と笑いながらおっしゃった。息子さんは三人いらしたので、どの息子さんなのか、ずいぶん個性的な文字だった。
 私が引っ越すことになり、お別れの挨拶に伺ったおり、先生から『禅林句集』をいただいた。知足の項目を見ると、〈足ることを知る。自己の分際に安んじて、貪りの心を起こさぬこと。法句経に「知足は第一の富なり」とあり〉と記されていた。
 この禅句は夫の実家の床柱にもあった。それは色あせた短冊だったが、義父の懇意にしていた住職が書いてくださったもので、「知足」と大きく、その下に「第一の富なり」と、小さい文字で書かれてあった。何かのおりに義父が読んでくれたので、「座右の銘ですか」と訊ねると頷いていた。
 結婚したばかりのころ、義父が名古屋大学に転勤となり、二階に住んでいた義兄夫婦も九州勤務となった。
 世田谷の実家は駅の近くて通勤に便利だったため、私たちは留守番をかねて、直ちに移り住んだ。階下の八畳の和室には床の間があり、そこに掛けてあった。
 実家には七年ほど住んで、長女の入学を機に神奈川県の西部に家を建てて越した。
 先生の彫られた知足の掛物を見ていると、当時のことがいろいろ浮かんでくる。実家は義兄がマンションに建て替えたが、新婚時代を過ごした古い家では義父母も夫も健在だった。
 明治43年生まれの義父は、知足を実践していた。身を律し生活を質素に、礼儀正しく、激昂することなく暮らしていた。定年間近で肺がんで亡くなったが、次の仕事が決まっていたのにと、義母は残念がった。亡くなって2週間後に、次女が誕生した。この次女を、名古屋からもどった義母はたいへん可愛がった。

 そういえば、次女が中3の時、受験のことについて有名な進学校の教諭の講演があり、聴きに行った。いまだに記憶に残っているのは、親は子供の成績に一喜一憂し、オール2の子供の親は「せめて3がもらえるように頑張りなさい」と言い、3をもらっても褒めようとはせず、「4を目指しなさい」と発破をかける。成績が良くて運動以外は5をもらっている子の親は「運動も頑張りなさい」と完璧を要求する。常に上をめざし、満足することがない。それぞれ得意分野があるのだから、成績だけで判断してはいけない、追い詰めると逃げ場を失った子は問題行動を起こすこともある、といった内容だった。
 校内暴力が激しかった時期だっただけに、背伸びをせずに、その子の学力にあった高校選びをするようにと助言したかったようだ。
 戦中戦後に生まれ子供の多い時代に育った親は、生存競争に勝つ子供に育てたかった。有名な大学に入り、大きな会社に就職すれば幸せになると信じていた。
 その子供が成長して親になった今、生き方が多様になり、少子化が社会問題になってきた。規律が乱れ、薬物の乱用や犯罪も増えている。
 年齢を重ねた今、生活を見直して足りていることに感謝すれば、もっと生きやすくなるのではないか。私は禅の心で、欲張らず、今の自分を大切にして、慎み深く生きたいと願うようになった。

 新潟に住んでいる旧友の話によると、市内にその名も知足という小さな美術館があるらしい。館長の中山輝也氏は、「良いものを誰もが見られる」をモットーに、作家や芸術を志す若手作家に展示の場を提供したり、郷土の先達の足跡を紹介しているそうだ。企業規模に合わせて社会に貢献すべきとの考えだという。帰省したおりに、ぜひとも訪ねてみたいと思っている。