戦い済んで
           海老原 英子


 今年も、親戚や友人、仕事関係者、お世話になった方々から、たくさんの年賀状をいただいた。
 その中で、特に目に止まったのは、三十年来、毎年いただいている相模原市立保育園の元園長原満里子先生からのものだった。
 先生は、八十歳を過ぎておられるはずだ。いつもと違ってはがき一面に細かな字で、私が、三人の幼い子供を育てながら仕事をしていたころのことが書いてあった。はがきを読み終わると、忘れていた当時のことが脳裏に浮かび上がった。
 私は、保育園に毎朝七時半ごろ、自転車の前部に次男を、後部に長男を乗せ、背中には三男をおぶって通園していた。
 この保育園は、昭和四十二年に新設され、設備も整っていた。それに、我が家から歩いて十分ほどのところにあった。
 一歳児から六歳児まで、約百名の幼児たちは、それぞれ「さくら組」「すみれ組」などと花の名前のついた五クラスに分かれていた。
 職員は、園長先生と七名の若い保母さん、給食担当者など十名くらいだった。
 園長先生は、毎朝やさしい笑顔で私たち母子を迎え入れ、「子供さんのことは私たちがきちんとお世話しますから、安心して仕事をしてください」と言って、送り出してくださった。先生も、子育ての経験をしていらっしゃるので、女性が結婚して出産しても、差別なく仕事が続けられるような職場環境を願望しておられた。だから、厳しい現状の中で苦しんでいる働く母親たちのよき理解者で、温かい励ましのことばには多くの人が勇気づけられていた。
 昭和四十年代は、私のように育児をしながら仕事をしている女性は少なかった。
 私の勤務する職場では、三十年代半ばごろまで、女性には若年定年制度があって、ウエイトレスは二十五歳、販売職は三十歳で退職しなければならなかった。当時は、結婚すれば退職するのがあたりまえで、育児をしながら仕事をするなど考えられなかった。
 このような職場であったが、栄養士という専門職で、私の前に勤務していた栄養士が二、三年で辞め、経験のある栄養士が職場にとって必要だったので、かえって退職しないようにと、念をおされた。
 しかし、当時の私は全く頼りなく、上司にとっては、いつ辞められるか分からないような存在だったらしい。その私が、三人の子供をかかえて仕事を続けるとは、周囲の誰もが予想できなかったであろう。
 保育園には父母会があり、医師や看護婦、薬剤師、教師など専門家として職業意識をしっかりもった人たちがいた。彼女たちは、育児と仕事を両立させるための制度の確立をめざしていた。
 この保育園も、父母会の人たちの努力によって建設された。その後も、保育園を卒業して小学生になった子供たちが、「かぎっ子」にならないように、引き続き学童保育所の新設の運動もしていた。私も休暇をとって市長との話し合いや署名運動を、積極的に彼女たちといっしょに行った。
 一方、職場にも労働組合の婦人部長をしている友人がいて、女性が働き続けられる職場づくりのために、育児休暇や育児時間の制度化に奔走していた。
 私は、周囲の人たちに大きな影響を受けながら成長していった。
 昭和四十一年生まれの次男のときから、一年間の育児時間制度(授乳時間を一時間付与)が導入されたが、現在のように気軽にとれる状況ではなかったので、私は申請しなかった。女性たちが権利としていた生理休暇も、とらなかった。
 職場では、一人の職業人として男性と同じように働いた。子供たちは、保育園が五時で終わった後、帰宅する七時まで、近所の奥さんにお願いし、二重保育をしていた。
 それでも、育児をしていることは、大きなハンディキャップだった。子供の病気や怪我など予測できないこともある。たとえ、夫の協力があっても、子育てはどうしても母親の役割が大きい。そのために急に休暇をとったり、早退することがある。
 保育園児のころ、流行性感冒や麻疹(はしか)、水疱瘡(ぼうそう)などは、集団生活の中では、一人が発病するとすぐに感染してしまう。
 家の近くにあるホームドクターの桜井良雄先生は、病気の子供をつれて診察室を訪ねた私に、「アメリカのように育児休暇の制度があるといいのにね。日本はずいぶん遅れているから気の毒だね。お母さんも病気をしないように注意してください」と、心配してくださった。
 その桜井先生が、今もお元気で、孫たちの主治医である。孫のことを、「お父さんの子供のころとそっくりだね」と、おっしゃる。
 昔の同志たちは、現役を引退して趣味や旅行を楽しむ生活をしている。
 先日も仲間から、「園長先生を囲んで美味しい料理を食べながら、あのころの思い出話に花を咲かせましょう」と、誘いの便りがあった。  
      (『芽吹きのとき』より)