手作り味噌の醍醐味(だいごみ)
                 
山内美恵子

 毎年二月に入ると、味噌を仕込む。
 それは、六月の「梅ジャム」作りと共に、わが家の年に一度の大仕事である。老境に入ってからは、「今年は作るのをやめよう……」一瞬、逡巡を覚えるようになった。
 しかし、長年作り続けてきたものを、ここで中止してしまうのは、大罪のようで心が痛む。何より、手作りの醍醐味が捨て難かった。毎年、ささやかな仕合わせを感じさせてくれるからである。
 私は気をとりなおし、今年も作ることに決めた。すると胸中にあふれていた重い石の塊が消え、不思議と体に力が漲(みなぎ)る。

 仕込みにかかる前日、昨年仕込んだ味噌瓶(かめ)を地下から取り出した。何年経っても、この瓶の蓋(ふた)を開ける瞬間は、緊張の一瞬であった。一年間会わなかった恋しい人に会うがごとく、胸の高鳴りが止まらない――。毎年私は固唾(かたず)をのんで、その瞬間を待つのである。
 いつも蓋を開けるのは、夫の方であった。仕込みは、何かと夫の出番が多く、カビが生えないよう消毒等に細心の注意を払い、厳重な包装をするからである。
 ようやく蓋が開き、落し蓋と表面の塩をのぞいた。すると、香(かぐわ)しい味噌のかおりが鼻の奥に流れ込む。一年ぶりに透き通った空気と、光に触れた味噌は、まばゆい黄金色(こがねいろ)の輝きを放った。カビ一つない、上々の出来である。舌にのせると、大豆と麹の芳醇(ほうじゅん)でまろやかなうま味が喉の奥にゆっくりと広がっていった。何時になく上機嫌な夫がつぶやく。
「百二十パーセントの出来だね――」
 この熟成した深い味わいこそが、手作りの醍醐味であり、手前味噌のいのちの芳香でもある。それは、作った人のみが味わうことのできる幸福感でもあった。今年も大いなる喜びをもたらす。
 始めて作った時、その感動と幸福感を分かち合うために、近隣にもお配りした。わが家のみで食すのは、もったいなかったからである。若い奥さんが、「味噌は買うものと思っていた」と、目を丸くされた姿がいまでも忘れられない。素材を引き出してくれる味噌は、とりわけ和食によく合う。早速脳裏には、フキノトウを用いた蕗味噌や、柚子味噌等の様々な料理がめぐらされる。
 古代から発酵食品は、人間の生活と切っても切れない関係を持っていた。とりわけ味噌作りは、昔はどの家でも見られた光景であった。私の郷里(福島県)では、麹屋さんから借りた大豆を煮る大きな釜と、潰す機械が近隣を回った。私の家は三月だった。毎年表の庭で、大人たちが家族総出で作った。子どもたちは、丸めた味噌玉を、土蔵に運ぶのを手伝った。郷里の土蔵には、数年前まで巨大な味噌樽がいくつも並んでいた。家族が大勢だった昔は、作るのも大量だったのだろう。母は醤油も作っていた。まぶたの裏に母の姿が立ち上がり、感謝の思いが胸にこみあげる。 
 私が仕事をしていた昭和三十年代は、県でも味噌作りを奨励した。私の勤務先にも、作り方のポスター等が送られる。私が受け持つ町村では、大方の家庭が作っていたため、指導する機会はなかった。しかし、家庭に入ったら是非作りたいと考えていた。 
 
 味噌を仕込む時期はいつでもよい。一月か二月の寒い季節の方が雑菌等も入りにくいため、わが家では毎年大寒に入ってから仕込んでいる。「寒仕込み」は失敗がなく、良質の味噌ができるからだ。
 味噌作りは、一見大変手間のかかる作業のように感じるが、作ってみると案外簡単である。「梅ジャム」等よりもはるかに手間がかからない。カビを防ぐために、容器の消毒さえ怠らなければ、失敗することは殆んどない。柔らかく煮た大豆を潰し、同量の米麹と塩を混ぜ合わせるだけの、単純な作業だからである。
 わが家は、大豆や米麹ともに産地から有機栽培を、塩は天然のものを取り寄せている。かなり割高であるが、味噌汁がないと夜も昼も明けない夫への、食への安全を得るためであった。
 作り方は、大豆一キロ、米麹一キロ、塩四百グラムが、基本的な割合である。塩や麹は好みに応じて調節すればよい。わが家は麹の割合を多めにし、塩を減らしている。先ず、一晩水につけて煮た大豆を潰す。これが味噌の仕込みで一番手間のかかる作業である。臼(うす)を用いる人、すり鉢で潰す人等家庭によってそれぞれ異なる。わが家は手動のミンサーを使用している。
 次に麹を手のひらでよく揉みほぐし、潰した大豆が温かいうちに麹と塩を混ぜ合わせ、大豆の煮汁を加えながら、耳たぶくらいの固さにする。それを拳(こぶし)大の団子にして味噌玉を作る。それらをよく消毒した容器の底に、押しつけるように拳で打ちつけながら詰めていく。表面を平らにしたら、残しておいた一割位の塩を上にふりかけ、和紙やラップをして軽い重石をのせる。最後に蓋をして、風通しのいい冷暗所で一年間寝かすだけである。
 手間と愛情の結晶でもある味噌作りこそ、家族総出で作るのに実にふさわしい作業である。大豆を潰す作業を、子どもたちにさせると、嬉々として目を輝かせるに違いない。お手伝いを通して子どもたちは、毎日自分の口に入るものが、どれほど人の手を要し手間がかかるものか、自ら汗して働くことによって学びとるからである。 
 家族が一体で心を結び作ったものが、やがて味噌となった時、その感動はより家族の絆を強くし、幸福感が輝くであろう。子どもたちにとっても、一石二鳥の生きた「食育」となるにちがいない。
 これこそが、家族の汗と愛情が詰まった自慢すべき、本当の「手前味噌」ではないだろうか。
 わが家では、息子が小学校に上がると、土曜日の夜夫と息子を生徒に、家族全員で簡単な料理やデザート等を作った。料理を通して、子どもの頃から生きる力を身につけさせ、家族が慈しみながら力を合わせて生きることの大切さを、体験させるためであった。また、私の手は、食べたい時にいつでも何でも出てくる、魔法の手ではないことを家族に知らしめるためでもあった。
 生徒の二人は額に汗しながら、この時ばかりは神妙な顔をしつつ、卵白や生クリームを泡立てる等、健気に先生の指示に従った。
 出来上がった作品は、次の日曜日のティー・タイムに並べた。生徒の二人は自ら汗して作った作品だけに、味わい方がいつもとまるで異なった。ていねいに味わいながら、作ってくれる人たちにも心を向けるゆとりができ、団らんをより和ませた。
 私は若い頃、死の渕から何度も蘇生し、いのちをも危うい幼子を抱えていた。健やかに育てることに心をくだき、とりわけ食生活にこだわってきた。暮らしの隅々まで意識をめぐらせ、便利な加工品や冷凍品に踊らされることなく、できるだけ手作りを心がける。
 幼い時分から、私の姿をみて育った息子は、手仕事の好きな子に成長した。誕生日や病気の時には、「出張シェフ」よろしく材料から調味料まで持参し、私たちのもとに馳せる。息もつかせぬ早業で、チーズケーキをはじめ和洋中イタリアンに至るまで、レストランの味を楽しませてくれ、豊かな時間への気配りを忘れない。
 今では昔と逆の立場となり、私の方が息子から、料理を始め様々なものを教わっている。当時は想像すら出来なかった。それだけに、生きてあるいのちの貴さが、深い喜びで満たすのである。 
 戦後私たちは、食品をはじめ様々な便利さの恩恵にあずかってきた。スーパーやコンビニには、所狭しと弁当が並び、宅配弁当の利用者も少なくない。最近驚愕(きょうがく)したのは、家まで出向き、一週間分の食事を作り置きしてくれるという業者まで現れたことだ。利用者は子育て中の若い奥さんたちだった。その様子をテレビで観ながら、私は小さからぬ衝撃をうけた。
 手を汚すことなく口に運べる便利さを、幸せ感と勘違いしているのが怖い。一歩間違うとそれは限りない怠惰へとつながり、作る喜びも生きる充実感さえも失うのではないかと、私は胸が痛んでならない。子どもたちは、母親の姿をよく見ているものである。
 例えささやかであれ、未来の子どもたちにつなぐべきものを、大人は心して受け渡していきたい。やがて子どもたちが大人になった時、それらは、生への希望を輝かせ、生きていく力となるであろう。やがては家庭をも照らし、人生の光沢を増すにちがいない。
 味噌を仕込むたびに私は心を揺さぶられ、背筋を伸ばす。発酵を生み出した先人の知恵をはじめ、すべてを手仕事で台所を担った昔の主婦の知恵の深さと偉大さに、生きる強さを教えられることが少なくないからだ。そんな母親たちのおかげで、私たちは家庭の温もりを肌で感じることができたからである。
 人間が生きるために、折角、先人たちが生み出してくれた知恵である。それらを謙虚に学びつつ、「老境をよりていねいに生き」なければ――私のなかに、鐘の音のように響きわたった。
 台所における先人の知恵には、おしなべてあたたかい光が宿っていることを、私は実感したからである。