テレビ三話
              羽田竹美
 
 NHKの朝のドラマを見ていたら、終戦後の復興期にテレビが町の話題になり、まだ庶民の手の届かない値段なのに買ってしまって一悶着ある話が放送されていた。
 私が幼いころ見た雑誌にはアメリカの一家団欒にテレビを見ている絵が載っていた。日本ではやっとラジオで楽しめる番組が放送され始め、子どもたちも『鐘のなる丘』や『笛吹き童子』の放送劇に胸をときめかしていた時代であった。
 やがて、プロレスが盛んになると、駅前の広場に街頭テレビが設置され、たくさんの人たちが手に汗を握って観戦していた。
 私は中学生になると、お相撲に夢中になり、ラジオで聞いていたが、家の前のラーメン屋さんでテレビを購入したと聞いて、何とか見に行きたいと思った。せめてひいきの力士の取り組みだけでもと思ったが、男の人ばかりたくさん入っているお店には入れなかった。店の前をうろうろし、小さく聞こえてくる実況放送に耳をすます。ひいきの力士の取り組みになると精一杯背伸びしてガラス戸からのぞいてやっと見られたのがうれしかった。クラスの相撲好きの友達何人かとは毎日、雑誌『相撲』のはなしで盛り上がり、相撲の知識はおろか、まだ関取になれない人たちにも興味があった。スポーツ新聞には毎日、序の口までの星取表が出る。電車通学している人が買ってくると、休み時間にみんなでこっそりと読んだ。ある日、クラスの人の家でテレビを買ったそうだという話を聞いた。親しい人ではないが、家は近いので頼めば見せてもらえそうだ。同じお相撲好きのFさんと二人で大きなお屋敷の裏口に彼女を呼び出して頼んだ。
「そのかわり、今日だけよ」
 と念を押されて居間に通された。近所のおじさんやお兄さんの友達がたくさんいる一番後ろで小さくなってお相撲を見させていただいたが、なんだか見た気がしなかった。
 十五歳のとき、両股関節が壊れて入院して手術した。松葉杖で歩けるようになると、病棟のすべての人たちと顔見知りになり、かわいがっていただいた。男性部屋から貸しテレビを置いたから見においでと誘われて大喜びで出かけていった。もちろんお相撲の観戦である。十五日間、毎日初めから終わりまで見せてもらって幸せだった。
 長かった入院生活に終わりを告げて家に帰る日がきたが、テレビが見られないのが残念でならなかった。帰りのタクシーの中で、何度も母に「つまらない、つまらない」と、言ったらしい。
 家に帰ると、病院が明るいので部屋の中が暗く感じた。その暗い中になんと、テレビらしいものがあったのだ。だんだん目が慣れていくうちに、夢ではなく本物のテレビだとわかって、うれしくて胸が躍りまわってしまった。頑固者で厳しい父が私のために買ってくれたのだと聞いて、素直にお礼を言えない似たもの娘は心の中で「ありがとう」と、頭をさげた。
 それから、我が家はテレビの前が団欒の場となり、炬燵に入りながら家族で『おいらの町』や『ジェスチャー』を見て多いに笑った。東京オリンピックも皇太子さまのご成婚もテレビで楽しんだ。
 私が結婚することになったが、新しい家具の中にはテレビはなかった。夫がいらないと言うし、テレビがいらない理由を力説され、そんなものかと思ったのだった。確かにテレビがないと会話が豊かになるし、静かである。
 ところが、一か月、二か月経つと、昼間一人でいる私は静か過ぎて寂しくなる。ましてや夫が当直の夜は寂しさに耐えられなくて実家に帰っていた。帰ったときにそれを父に言ったのか、母が父に伝えたのかはわからないが、突然テレビがうちにやってきたのである。
 門のチャイムが鳴って出ていくと、電気屋さんがテレビを持って立っている。
「私は頼んでいません」
 と言うと、父が購入して、「娘のところに届けてくれ」と、言ったという。
 夫の手前、父が余計なことをして困ったなと、一瞬思ったが、とにかく据え付けてもらった。夫が帰ってきてどんな顔をするだろうと心配だったが、夫は驚いた顔をしたけれど、自分のポリシーを崩された怒りをぐっと抑えてくれてほっとした。
 父にとっては経済的に裕福でない娘の家にテレビを買うお金もないと哀れだったのだろう。父の愛情をわかってはいたが、素直になれない娘はお金にものをいわせる愛情などはいらないなどと、生意気なことを心で叫び、きちんとお礼を言わなかったように思う。
 その白黒テレビは世間がカラーテレビに変わっても我が家に居座り続けていた。長男が幼稚園に入ると、仮面ライダーもウルトラマンも色がないのでつまらないと言う。
「友達のうちはみんなカラーテレビだよ」
 と、お父さんに言うのだが、
「うちはカラーテレビを買わない!」
 と、ぴしりと言われてがっかりしている。
「サンタのおじいさんに頼もうかな」
 と言ったが、
「あんな重いものはソリに乗せられないからだめだ」
 と言われてあきらめたようだ。
 長男が一年生になった九月、台風が吹き荒れていた朝からお腹が痛いという。寝かせておいたが、痛みがだんだんひどくなるので近所の医者に連れていった。「腸炎でしょう」と言われ薬をもらったが、「痛い、痛い」と体をくの字に折り曲げている。そのうち下血した。私は「あっ」と思った。育児書にある腸重積という病名が頭にうかんだ。腸が腸にねじりこんでしまう恐ろしい病気だ。早く手当てしないと死にいたるかもしれないという。私はあせった。すぐ一一九番に電話して救急車を頼んだ。それと同時に近くにある国立小児病院に電話して、
「腸重積らしいので救急車を頼みました。そちらに連れていきますのでお願いします」
 と言った。もし、たらいまわしされたら大変だと思ったからだった。幸いなことに許可をもらえて嵐の中に到着した救急車はすぐ連れて行ってくれた。病院では高圧浣腸がなされてなんとか大事に至らずにすんだのだった。私の判断が正しかったと後でドクターに言われてそれまでの緊張がほぐれて力が抜けた。
 処置が終わったころに駆けつけてきた夫は娘が亡くなった後、長男までも・・と考えただけでも足がすくんだという。 
「一晩お泊りしてもらいます」
 という看護師さんの話で涙目の長男を病室に残しての帰り道、夫が低い声で言った。
「あいつが帰ってきたら、カラーテレビを買ってやろう」