徳満寺の絵馬             
                   石川のり子
 
 徳満寺の地蔵堂のガラス戸に顔を近づけて中を覗くと、すぐ正面の廊下に絵馬は掛けてあった。
 色が褪せて不鮮明な部分もあるが、衝立の内側にいる藍色の縞の着物を着た母親が鉢巻を締めて、鬼のような形相で、茣蓙(ござ)の上の生まれたばかりの赤子を絞め殺そうとしている。側には行灯(あんどん)があって、障子に映った母親の頭には角が生えている。
 私はこのような残酷な図柄の絵馬を初めて目にした。大きさはほぼ1メートル四方だろうか。額に入れられてある。私の貧しい知識の中での絵馬は、凛々しい馬であった。社寺に祈願や報謝のためにする絵馬であれば、いくら画題が自由であっても、おのずから規制はされるだろう。
 よく見ると描かれている母親は、ぼろを纏っているわけではない。行灯には白い和紙が貼られ、戸の障子も破れていない。屏風と襖(ふすま)には絵まで描かれている。嬰(えい)児を殺さなければならないほど切羽詰まった暮らしには見えない。
 やはり、人目にさらされることを考慮したのだろう。だれがどのような意図で奉納したのかわからないが、不思議な絵馬である。
 手に持っている利根町発行のパンフレットには、「天明の飢饉(ききん)――1783年浅間山の噴火を原因にして空が曇り、洪水が起き、何年も米がとれず、たくさんの人が餓死した事件――以来、食べ物がなければ、こうする以外に方法がなかった」とある。
 噴火の影響で起きた冷害による飢饉は、多数の餓死者をだし、各地に一揆・打ちこわしが起き、幕府や諸藩までもが危機に陥ったという。
 食糧がなければ、人口を抑制するのは当然だろう。か弱い赤子は、布団をかぶせて窒息させられたり、石臼で圧殺させたり、濡れた紙を顔にはりつけたり、さまざまだった。
 となれば、間引きの絵馬は各地にあるのかもしれない。画題が画題だけに、隠されている可能性も考えられる。
 絵馬の奉納された地蔵堂の奥には、身の丈が約2,2メートルもある延命地蔵尊が安置されてある。「子育て地蔵」とも呼ばれ、尊ばれている。その呼び名の由来は、布川に住む与兵衛とさだという夫婦に、13年ぶりに男子が授かる。ところが、3歳になったときに名医が匙(さじ)を投げるほどの重病に罹(かか)る。信仰の篤い両親は、この地蔵尊に昼夜をおかず熱心に祈り、7日目に子どもは平癒したという。
 このような言い伝えのある子育て地蔵堂に、間引きの絵馬を奉納するというのは、子返しの意味もあるのだろう。生まれ変わったときに、幸せであってほしいという願いが込められている。母親の気持ちが右側に立っている地蔵尊の涙に象徴されているように思われる。

 明治20年、民俗学者の柳田國男が、13歳のときに、医院を開業している長兄を頼り、利根町の布川にやってきた。2年余り暮らし進学のために上京するのであるが、好奇心旺盛な國男少年はさまざまな体験をする。この絵馬も地蔵堂で見ている。
 著書『故郷七十年』には、「私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている」と記している。
 また、布川の印象を次のように語っている。
「どの家もツワイ・キンダー・システム(二児性)で、一軒の家には男児と女児、もしくは女児と男児の二人ずつしかいないということであった。私が『兄弟八人だ』というと、『どうするつもりだ』と町の人々は目を丸くするほどで、このシステムを採らざるを得なかった事情は、私にも理解できたのである」。
 この布川での体験が民俗学に興味をもつきっかけになったらしい。

 毎年11月末に開催される地蔵祭りでは、地蔵堂が御開帳され、実際に延命地蔵尊を御参りすることができる。私も今年はゆっくり拝顔することができた。
 この徳満寺は真言宗の寺院として開山されて400年余りになるそうだが、以前、ここには布川城があったという。城主の豊島氏は、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、北条氏に忠誠を尽くして敗れた。現在は、史跡の案内の立て札で知るのみである。
 私は変遷を見てきたであろう境内の巨木を見上げながら、お堂の裏に回った。そこには手のひら大の絵馬50枚ほどが、太い釘に分散されて掛けてあった。合格祈願、病気平癒祈願などのほかに、マラソンで一等になりたい、ピアノが上手になりたいなど、子供らしい微笑ましいものまで見られた。