「図書館の本」と怪我の功名
                山内美恵子
 

  読書が生活の一部である私にとって、英知の宝庫である図書館や書店は、こよなき楽しみの場所である。特に、図書館は雑駁(ぱく)な日常から離れ、乾いた心に潤いをあたえてくれる、私のひそやかな至福の場所でもある。

 私が本格的に図書館を利用するようになったのは、結婚してしばらく経ってからであった。
 「これ以上本を溜めると、下敷きになって死んでしまうからね――」。
 などと言われて、地震がくるたびに、私は家族のヒンシュクを買ってきた。しかし、一日でも読書をしないでいると、頭のなかが空っぽになったような気がして、焦燥感にかられ心が騒ぐのである。
 私の二階の部屋には、机の右側の壁面二間半ほどの、床上から天井までのオーダーメードの書棚と、一間の本箱がある。階下にも、大きなスライド式の書棚や、ガラスの扉のついた書棚などがある。ほかにも祖父や伯父の和本を所蔵している本箱がある。皆、私が必要に迫られて求めたものである。

 本への愛着が深い私は、家族の本は処分できても、自分の物はなかなかできず、本は増える一方であった。ましてや心を込めてお贈りいただいた本は、なおのことである。本には、一行ごとに書いた人の魂ともいえるものが深く込められているからである。
 以前、百科辞典や全集、四十年分の俳句の雑誌や読まない雑本などを、泣く泣く処分したことがあった。だが、何年か経つとまた元の木阿弥であった。安価なリサイクルの書店ができてからは、なおのことである。店に入るとつい私の手が止まらず、帰るころには何冊もの本を抱えているからである。
 さすがの私も、これ以上本が増えると、本当に死に兼ねないと不安になり、できる限り図書館の本を利用することにした。苦肉の策だった。
 最初のころは、本の汚れに戸惑った。しかし、カバーをかけて読んでいるうちに、気にならなくなった。当時、図書館の規則では、一人で三冊借りることができた。やがて、それが六冊となり現在は、十冊を二週間借りることができる。
 一回に持てる私の限度は、十冊である。時にはそれだけでは足りず、家族の貸し出しカードもかり十五冊ほど借りる。
 買った本は、時間がないとつい後回しにすることが多い。だが、図書館の本は、返却日が決められているため、睡眠時間を削っても必ず読むことにしている。一冊でも読まないで返却すると、とても大切なものを失ったようで何か落ち着かないからである。
 強く惹きつけられた本は、少し間を置いて何回でも借りて読む。三回も読むと愛着が増し、返却するのが惜しくなり、ついには書店に注文するのだが、すでに絶版の本が多い。ある時、そんな返却するべき本のとある一冊を自分の机の上に忘れてしまう。一度だけとはいえ、それに懲りた私は図書館で借りた本のみの、「備忘録」をつけることにした。
 借りてきたら先ず、本の題名と著者名、出版社名を記入する。後に本を注文するときのためである。最後に通し番号を題名の上に記入する。一日一冊読んでも、三十年後の七十歳までには、一万冊はゆうに読めるだろう、と考えたのは四十代のころだった。
 しかし、ひたすら乱読した若い時期と異なり、加齢と共に読む速度もジャンルも全く違ってきた。若いときには手にしなかった本も読むことが多くなってきた。その上、心をゆさぶられた本は何度でも読む。そして、強く惹かれたことばは、「読書録」に書き留めずにはいられない。
 それは、結構時間を要する作業である。時間を節約するためコピーをした時期があった。しかし、それをすると頭の中の引き出しからは、ことばもイメージも何もでてこなかった。手抜きした分大切なものは、頭を素通りしてしまったのである。それに懲りた私は、再び自らの手で、ノートに記す作業にもどった。
 近年は、本を読んでいると書く時間がなく、書いていると読む時間がないのが悩みの種である。私の生活も変化し、益々読書は一向にはかどらなくなった。

 そんな中、私は古希をむかえた。三十年間記録した「備忘録」を取り出し、目を見開きながらしげしげと通しナンバーを見る。五千八十二冊であった。目標の一万冊には遠くおよばず、半分にすぎない。
 私の人生の残り時間は、そう多くはない。健康に不安を抱えている私が、あと三十年生きられるとは到底考えられない。生きている間に、私の夢は叶うことはないであろう、と暗澹たる思いで五冊のノートをしみじみ眺めた……。
 記録を始めた四十代は、まだ子育て中だった。本の題名を見ていると、まるでその本の背表紙を眺めてでもいるかのように、当時の情景までもが脳裏に去来し感慨深い。図書館の本だけの記録とはいえ、それは、自分史を垣間見るおもいであった。私の読書の半分は、図書館の本が私の人生に寄り添ってきたからである。
 あの時、一冊の本を忘れることがなかったら、人生の記録ともいえる五冊のノートは存在しなかったであろう。それはまさに、怪我の功名以外のなにものでもなかったような気がする。

 一万冊の夢は叶うことがなかったが、五千冊あまりの図書館の本から、私は予期せぬさまざまなオマケをもらう。
 いつの間にか私は、良書を見分ける嗅覚のようなものが身についていた。直感的に自ずとそれがわかるようになる。良書は中身のない本と異なり、装丁も大方シンプルであった。
 歌人の上田三四二氏の著書と出合ったのも、図書館の本棚であった。
 医師で、文芸評論家、小説家でもある氏は、終生壮絶な病と闘いながらも文学への情熱は衰えず、数々の賞を受賞される。透徹した死生観に裏打ちされた静謐な作品から、私は「生きる」ことの意味を改めて学んだのだった。氏の短歌や評論、随筆などから学び得るものは尽きず、心をゆさぶられた私は「是非、ご著書を座右におきたい」旨、書状を認めた。氏は隣市にお住まいだった。それ以来、新刊書が出るたびにご著書をお送りくださり、「遊びにぜひおいでください」、と温かいお文が必ず添えられていて私の心を熱くさせた。作品同様、控えめでつつましやかで、温雅なお方でいらした。既にお亡くなりになられたが、私の尊敬する作家のお一人であった。
 子育て中は、中学生の時読んだ、『少年期』の著者で心理学者の波多野勤子氏の著書をよく借りてよんだ。後に、朝日新聞の『読む』欄に氏の『少年期』の思い出を綴ったことがあった。それをご覧になられた氏のご主人であられる、心理学者で教授の波多野完治氏より『少年期』のご本と、鄭(てい)重なお文が送られてきた。次の日は、本のなかの主人公(一朗少年)であったご子息からも、勤子氏のご著書をお送りいただいた。勤子氏は既にお亡くなりになり、一朗少年は長じて大学の教授となられご活躍されていた。  
 一介の主婦にすぎない私のようなものにも、雲の上のように感じる偉大なるご家族は実にお優しく温かかった。私は読書から、思いもよらない様々な恩恵をうけてきた。「本が好きでよかった」、と深い喜びにみたされる。
 子育てが終わると、神谷美恵子氏の著書を熟読し、シスターである鈴木秀子氏や、心理学者の河合隼雄氏、作家の竹西寛子氏の本をすべて読んだ。強く惹かれた方の本は、すべて読まずにはいられないからである。近年は「生と死」についての本に手がいき、ノンフィクション作家の柳田邦男氏の本や、「闘病記」などの本を読むことが多くなった。それらの本は、勇気を持って病と闘う人たちのいのちの声と魂が込められていて、生きる力が湧くからである。
 少女のころは、詩作に耽っていたこともあり、今なお詩集が手放せない。谷川俊太郎氏や、茨木のり子氏、長田弘氏の詩集をよく借り、心を洗う。自らの嗅覚で選んだ本は、読めばよむほど学び得るものが尽きず、心が耕される。総じて個々の世界に深い奥行きがあり、そこへ著者の内面の輪郭が浮かびあがり、選び抜かれたことばが立ち上がっていて実に清々しい。
 それらの本は、取り寄せたり書店で求めたりして、必ず座右に置く。どの本も、暗唱するほど繰り返し読むせいか、まるで大切な方と共にいるような錯覚を覚え、心が安らぐからである。私の人生は、そのような本によって支えられてきた、といっても過言ではない。著者の心に触れる、「読むこと」からやがて、「書くこと」へと導かれ、ささやかながらも何冊かの「生きてきた証」を紡ぐという、大きなオマケまでついてきたのである。
 何がきっかけで人生が展開し、生きる道につながっていくかわからないものである。怪我の功名とはいえ、いま私は、読書の力の大きさというものに新たに感じ入っている。

 今年平成二十二年は、図書館施行、六十周年であるという。去る、十月九日、「全国図書館大会」が奈良で開催されたことを、新聞で知った。
 五千冊の本を、読ませてくれた図書館には頭を垂れずにはいられない、とひそかに感謝している。一方、図書館を利用すればするほど昔以上に、家のなかには本が溢れ相変わらず私は、家族のヒンシュクを買っている。

 私のなかには、一万冊への夢が静かに生き続けているからなのかもしれない。