仕えるということ
                     高橋 勝


 今年度も、昨年暮れからこの五月まで、大学生の公務員模試と教員採用模試における論作文の添削業務を担当させてもらっていた。そのうち第二回目の公務員模試の課題は、「仕える」をキーワードとしてあなたの考察したことを自由に論述しなさい、というものだった。課題には「自由」とあるが、いつものことながら公務員模試であるため当然公務員の視点や立場で論述することが求められる。
 答案用紙をパソコンで多数添削していると、特に優秀なものとは限らないが、いつか思いかけず惹き込まれてやまない、ある種の音楽に出会ったような、どこか胸に響いてきて、言いようもない高揚感を覚えさせられる「作品」に出会うことがある。今回のテーマには特にそうした文章が多かったように思う。
 そういえば公立学校の教師も教育公務員という身分である。その一教師であったこの身は、全体の奉仕者として誠心誠意生徒たちや保護者に尽くしていたのかと振り返ってみると、厳しい問いかけになるのは否めない。それならば、生徒たちに対して当初抱いていた教育の熱い理想や教師としての前のめりの抱負は、現実の学校のありようや生徒たちの実態に触れあっているうちにいつの間にか色あせたものになってしまい、ついには完璧に消滅してしまったと言うのだろうか。否、そうであるはずはない、と意地でも自分を取りなしたくなる。ただはっきりしているのは、この模試答案という形で学生の綴る文章の綾に触れていると、遠い過去の記憶のなかから、なにがしかの感覚が息を吹き返し、突如自分の目の前に立ち現れ、居ても立ってもいられなくさせられたということだ。そう、あのころの緊張感や意欲は決して死に絶えていた訳ではなく、自分のなかでいつの頃からか半ば眠りについていたのではないかと言うことである。
 そこで、一線を退いた者が、これから社会に飛翔しようとする若者の肉声に接し、間接的な関わり合いながらも感動させられたり、これからの人生になにがしかの希望といったものを抱かせられたりするのはなぜなのか、この意外な疑問に向き合ってみたい気になった。
 ここで、実際に論述された答案をいくつか拝見したい。次の例は、学生時代のアルバイト体験を活かして論述したものである。
 『(一部略)私が初めて「仕事」に触れたのは、大学2年生から今まで続けてきた個別指導塾のアルバイトである。最初は何をどのように教えればよいのか分からずに、ただただ雇っていただいたうえに、給料をもらっている以上は、誠意をもって働こうと思い、社員の方に指示された通りに仕事をこなしていた。おかげで社員の方からはお褒めの言葉をもらうことが多くなり、仕事を上手くやるには謙虚さや誠実さが大切であるのだと感じた。また、公務員関係の本を読むと、これらの資質も公務員に求められると書かれているのを目にする。確かに奉仕者には大切なものであると思う。
 しかし、アルバイトを続けていくうちに、なかなか生徒の成績が上がらないという壁に当たってしまった。そこで私は少しずつ自分で考え、それを伝えていくようにし、生徒も社員も、そして私も納得のいくような指導をし、成績を上げることができた。
 上記のアルバイトの経験から私が考えたことは、仕事をするうえで人の話を聞き、誠意をもって対応することは重要であるが、決して受動的になってはならず、自分でも問題の解決を目指して考え、それを相手に伝えていく姿勢も大切であるということである。(以下省略)』(T大、FKさん)
 この答案は、「仕える」ことの理念としては概ねうまく書けているものの、具体的な考察までの踏み込みが不足していると指摘できる。ここで、具体的なあり方の不足している部分について補足するとすれば、同じように学習塾の講師アルバイト体験を綴った、もう一人の次の例が引用できよう。
 『(一部略)アルバイトを始めた当初の頃は、指導のスキルがまだまだ身に付いていなかったことで自信を持つことができず、生徒や保護者と向き合うことから逃げていた部分があった。しかしそのような姿勢を続けていると、生徒からも保護者からも信頼してもらえなくなると考えたときに、まず必要なことはそれぞれの立場に立ってみることだと思った。生徒にとっては気軽に疑問をぶつけられる先生であることが必要であり、保護者にとっては自分の子どもに意欲的な学習をさせてくれるような先生であることが求められるであろうと考えた。そこで、生徒と勉強のことだけでなく、部活や趣味、小さな悩みなど何でも話すように心がけ、生徒が心を開き、信頼を置いてくれるよう努力した。それから学習面でも生徒ひとり一人の弱点に合わせたオリジナルのテストを作ることで、生徒は積極的に苦手を克服するようになり、成績の向上にもつなげることができ、結果的に保護者からの信頼も得ることができた。(以下省略)』(K大、MHさん)
 こちらには、前のFKさんのあり方に加え、仕事を通して関わり合う相手との間に真のつながりが持て、結果として相手の信頼を勝ち得たことが具体的に語られている。ただ注意しておきたいのは、「生徒が心を開き、信頼を置いてくれるよう努力した」と記述してある点について、これはただ単に理念的にそうすべきだからそうしたということではなくて、その前提として相手方への認識と同時に、そうした状況を作り上げている自らへの自己反省があったという点である。つまり、それまでのような逃げの姿勢をしているかぎり、思うような効果は得られないと、目の前の生徒の有り様を見て心の痛みを覚えていたということである。こうした心情があってこそ、始めて相手に向けての新たな考察と行動に駆り立てられたと考えられるのだ。
 以上の論作文の例を見てきて、どのようなことが学べるのか、今の身には一体何ができるのか、自分に何か「仕える」ことがあり得るのか、といった疑問点が土砂降りのように降りかかる。そう……、これは今の退職した現況との関係性でどこか捉えているところがあるのだと考えざるを得ない。
 そもそもこの添削の仕事を始めるきっかけは、現役から引き下がった身にとって、初めて迫ってくる「時間」といかに向き合うかという問題と深く結びついていたのを思いだす。仕事が突然なくなり、朝、目覚めるたびに、今日は何をする、何をしよう、と時間に追い立てられる恐怖に耐えきれず、非常勤講師になってみたり、オーディオや音楽鑑賞に耽ったり、自然散策をしたり街なかに出て行ったり、あるいは町のボランティア活動に携わってみたりして、なんとか孤立感を紛らわそうと無意識的に時間を費やすことに腐心しているような自分があった。それゆえ、その流れのなかで、この仕事は比較的気楽に時間を埋められるうえ、ある程度働く時間の融通が利いたり、多少の報酬も得られたりするといった自分本位の物質的打算の産物でもあって、決してそれ以上のものを求めていた訳ではなかった。
 しかし、今さらながらの念もあるけれど、この添削という仕事のできる機会をいただき、与えられた仕事に向かってひたすらにこの時間のなかに身を置いていると、思いかけず、今こうして現実の若者に接して能動的な働きかけをしていられることが、いつか忘れていた自分を蘇らせ、心に響く音楽に耳を傾け、音楽とともに自分の精神もひとつの希望に繋がり、燃焼し始めているのだと、あらためて気づかせられるのである。(了)