私のアルバムから 
                 早藤貞二
「昭和16年1月元旦」という日付入りの写真がある。
 場所は、江戸末期に私の実家から分家した家の中庭である。そこに私たち家の者5人と、あちらの家の人たち6人、合わせて11人が写っている。
 左から順に、当時旧今津中学校3年生だった長兄の貞彦、藤樹女学校4年生の喜美さん、私の母淳子、おじさんの喜三郎さん、犬を連れた長浜小学校4年生の私貞二、おばさんの美和さん、あちらの家のおばあさん、私の家の祖母節、安曇小学校1年の鞠子さん、兄と同年の宏三さん、そして一番右が、私の父甚四郎だ。
 もう一人、あちらの家の長男達也さんが居られないのは、出征して、戦地におられたのだ。この写真は、おそらくその達也さんに送るため、写真屋さんに頼んで撮ってもらったのだ。
 最初、彼は敦賀の連隊に配属された。私たちは、冬休みが終わると長浜に行く。父も私も三学期が始まるから。
 母は、家の前に小さな机と椅子を置き、道行く人々に、赤字で「武運長久」と書いた白い布の回りに、ご自分の名前を書いていただくよう頼んだ。学校から帰った私も手伝った。夕方になると、母は八幡神社の鳥居の横に立ち、お参りに来る女の人たちに千人針をお願いした。
 2つの物が出来上がると、それらを持って母と私は達也さんの居る敦賀へ向かった。私にとって、汽車の旅は初めてだった。敦賀駅で降り、兵舎まで歩いた。営門をくぐる時、持ち物の検査がある。食べ物は持って入れないので、私は達也さんが好きだった餅菓子を服の内ポケットに隠して持って入った。
 面会が出来て、彼は大へん喜んで下さった。私たちも故郷の様子をあれこれ話した。彼の部隊は間もなく大陸へ渡り、中支から南仏へと転戦された。私は長浜国民学校(太平洋戦争になるに伴い小学校の名は消された)を卒業すると、高島に帰り、祖母と暮らすことになった。
 祖母は、毎朝早く近くの神社に出向き、「お百度参り」をした。又、祖母は毎朝のお膳に達也さんの写真を飾り、影膳をしていた。祖母も母も、そういうことをしていたのは、達也さんが無事に日本に帰ってくれるように願っていたからだ。
 その願いが通じたのか、日本は敗戦になり、達也さんは8年ぶりに家へ帰ることができた。私たちは、あちらの家へ急いで行くと、家の人たちに囲まれて、寛いだ彼の姿を見ることが出来た。
 彼は「家に帰れるとは、全く考えもしなかった。みんな有り難う」と云い、土産に南仏印のパイナップルを下さった。又、おばあさんや妹の喜美さんが亡くなられたことを知り、悲しがっておられた。おばあさんは高齢であったので仕方なかったけれど、妹さんが亡くなられたことは、ショックだったようだ。 彼女が亡くなられた時の様子は、私も覚えている。祖母と一緒にあちらの家へ行ったら、奥の部屋の寝間で「痛い、痛い」と布団をかきむしるように叫んでおられた。おばさんが「貞二さんが来てくれやったで、分かる?」と云われたら、一瞬泣き止んで、微笑まれたように感じた。でも、すぐ布団を被り「痛い」を繰り返されていた。腹膜炎だった。
 戦争中、薬といっても、今のような物は無かった。そして、数日後、彼女は亡くなられた。私にも、いつも優しくして下さったのに、悲しく残念な気持ちだった。

 もう一枚の写真は、日付はないが、これも戦中のものだ。私の父は、男ばかりの4人兄弟の一番下だった。仏壇を前にして、斜め前に、左下から小学生の私、父、私より6歳下の正和君、その父の三男古賀さん、長男木津孝太郎さんの奥さんのお父さん、お寺のお坊さん、孝太郎さん、斜め前に、右上から奥さん、息子の勇次郎さん、奥さんの妹さん、合計10人だ。東京におられる次男の小三郎さんがおられないのは、用事があったからだ。
 孝太郎さん兄弟の父親の20回忌に当たり、お寺に参った後、お坊さんに家に来てもらって仏さんに参ってもらった時の写真だ。勇次郎さんには、畑へ行ってスイカを取ったり、川で魚を摑んだりして遊んでもらった。実は、孝太郎さんには子供がなかったので、奥さんの実家から赤ん坊をもらって育ててこられた。その人が勇次郎さんだった。
 その勇次郎さんにも召集令状が来て、海軍の方に出征されることになった。彼は間もなく輸送船に乗り、フィリピンに向かう途中、米軍の襲撃を受け、応戦するも船は燃え上がり、沈んでしまったという。おじさん夫婦にとって、お国の為とは云いながら、その悲しみは計り知れないと私は思った。