「八重の桜」と郷土料理
               山内美恵子


 梅雨入りが間近い六月、庭の山椒がみずみずしい若葉をひろげ、風にゆれていた。若葉を一枚摘みとり、手のひらにのせる。軽くたたくと山椒の香が清々しさを運ぶ。
 香りの立った若葉を鼻に近づけ、しばらく山椒の匂いをかいだ。すると無意識のうちに、ふるさとの郷土料理、「山椒漬け」が脳裡をかすめる。
 私のふるさと会津には、他所にはないような、珍しい郷土料理が数多く残っている。身欠きニシンを山椒の葉で漬ける、「ニシンの山椒漬け」や、「棒タラ煮」「鯉の旨煮」「こづゆ」等である。それらは、身近にある素材を巧みに利用した料理が多く、江戸時代から食されてきたものだという。
 その中でも最も代表的な会津の伝統食は、「こづゆ」である。会津で育った人なら、知らない人はいない。七月二十八日の大河ドラマ、「八重の桜」でも「こづゆ」を食する感動的なシーンが登場した。
 戊辰戦争で新政府の攻撃を受けた会津は、下北半島最南端の斗南に移される。八重たち一家は、米沢藩の知人内藤家に身を寄せる。
 会津藩の大参事となる大蔵が、斗南に行く途中八重たちのもとを訪れた。
 八重の母は、大蔵を「こづゆ」を作ってもてなす。それを食しながら、大蔵をはじめ八重たち家族は、束の間の至福に一同涙にくれる。伝統食の「こづゆ」が、いつ登場するかと、首を長くして待っていた私も、つい感泣してしまった。
 それにしても、新政府に煮え湯を飲まされ、悲しみに打ちひしがれた八重たちの心を癒すがごとく、「こづゆ」が登場するとは――。何という心憎い演出であろうか。
 会津では、婚礼等のお祝い事や、お祭り仏事には、普段食べることのないご馳走を作ってもてなす習慣があった。人情に厚い会津人ならではの心遣いである。
 郷里を離れて久しい今なお、わが家の食卓には、郷里の料理が数多く並ぶ。遠来の客のおもてなしはもちろんのこと、何くれとなく「こづゆ」を作る。とりわけお正月には、この郷土料理を三が日食す。山の幸と海の幸を取り合わせた、具沢山のお吸い物であるため、むしろ次の日の方が、美味しくいただけるからだ。
「こづゆ」は、会津若松周辺の平坦部で、古くから饗膳に添えられてきた格式の高い料理である。しかし、何杯お変わりをしてもよいことになっている。もともと武家の料理であったが、やがて地域に広まったという。
 この料理には「干し貝柱」が欠かせない。貝柱は一晩だし汁の中にいれてもどす。干ししいたけと干しきくらげも水でもどし、里芋は、輪切りにして茹でておく。
 鍋に貝柱の入っただし汁を入れて、糸こんにゃく、干しきくらげ、里芋、人参等の野菜を入れて煮る。塩と醤油でお吸い物ていどの味加減にし、水でもどしておいた豆麩や銀杏等を加える。味を整えたら、彩りに青味を添えるとより見映えがする。
 会津には、「こづゆ」のための朱の漆塗りの専用のお椀がある。深さ七〜八センチのふたのついた器である。これを「大平」と呼び、ふたには、鶴と松などの蒔絵が描かれた豪華な器である。お祝い事があると、母が土蔵からだしてくる。終わるとそれらのお椀を、紅絹(もみ)の薄い布で丁寧に拭く。幼い頃から私もよく手伝った。

 雨上がり庭におりると、しばらく見ないうちに、山椒が青々と葉を茂らせていた。柔らかい若葉のうちに、今年も「ニシンの山椒漬け」を作ることにした。山椒の木から葉柄ごと、かごにいっぱいに若葉を摘み取った。
 会津では、山椒の葉が茂る季節になると、身欠きニシンの「山椒漬け」を作る習わしがあった。保存食のため、専用の漬け鉢がどの家庭にもある。長方形の鉢で、二キロの身欠きニシンを漬けることができる。
 山々に囲まれた会津は、海から遠く新鮮な魚が手に入らなかった。このように発酵させて保存する、郷土料理が多いのも、会津人の知恵だったのだろう。
 この料理は、山椒の葉と身欠きニシンさえあれば、簡単に作ることができる。ただし、ニシンは必ず身欠きニシンを用いる。
 米ぬかを加えた水に、ニシンを一晩浸し、余分なあぶらを抜いておく。戻したニシンを三〜四切れにする。長いままでもよい。漬け汁の醤油、砂糖、酒、酢を鍋に入れ沸騰させ冷ましておく。分量は同量でもお好みでもよい。酸味の苦手な方は酢を控える。漬け鉢がなかったら、深い鍋等を用いる。 
 漬ける容器に、山椒とニシンを交互に重ねる。その上から冷ましておいた、漬け汁を注ぐ。押し蓋をして重しをのせ一週間漬ける。
 出来上がったら、山椒の葉を除きそのまま食す。軽く焼いて食べるのも味わい深い。
「こづゆ」のように、特に美味しいものではない。けれども、山椒の香りとまろやかな酸味が食欲を増進させる。身欠きニシン特有の渋みや臭みが消えるからだ。その上、漬け汁が発酵を促し骨までやわらかくなり、子どもや老人も安心して食べることができる。
 ごはんのおかずにもよいが、特に酒の肴によろこばれる。酒どころ会津は、酒に合わせた食べ物にうるさく、会津独特の食文化が発達した。
 会津を訪れたある有名な料理研究家が、この「山椒漬け」を食し、「会津の味を代表するものである」と絶賛されたという。作るたびに私も、身近な材料を巧みに利用した、会津人の英知に敬服してやまない。
 日本の食文化を研究し、食といのちの関わりへの、深い洞察力を持つ、料理研究家の辰巳芳子氏は、
「日持ちする食べ物を『仕込み』と表現していたのに、いつとはなしに『保存食』と言うようになった。(省略)仕込みものとは、ものに向かう、人の手わざの態度が、ありありと見えて伝わる実在言語である。一方、『保存食』とは、食品の分類整理上、けろつとして現代に現れ、科学的進歩的なつもりで、なんとなく使われている。この魂のぬけた言葉の下で、ほんものの沢庵、梅干しなど数限りない保存食が本来性を手放した」
 と、エッセイ『風仕事』の中で述べる。
 辰巳氏は「スープの会」を主宰され、「いのちのスープ」の生みの親でもあった。氏の料理には、食材をきわめて丁寧に観察され、それらを生かした手間をかけた料理が多い。新聞や雑誌等の料理も、「素材を失うような書き方はしない」と、きっぱり語る。
「お金は人それぞれの時間の結実であり、働きは、生命現象そのものであるから『カネ』を大切にすることにつながるからである。カネが死ぬと再びその料理に挑戦する方が少ない。よい料理はすんなり作れ、作り手の自信、家々の賑わいになってほしいからである」
 氏は常に作る人たちの立場を考慮し、お金の大切さを強調される。
 そんな辰巳氏の細やかな心配りや、精力的で生気あふれるお姿は、私の魂をゆさぶらずにはおかない。氏こそ、長年私が敬愛の念を抱く、料理研究家のお一人だからである。私は氏のご著書や様々な幅広い活動を通して、こころざしの高さに強く惹かれ、目を開かされてきたからである。
 氏が「いのちのスープ」を考案されたのは、病のお父上のためであった。以前、氏のご著書をネットで検索していたら、わが目を疑い驚嘆した。取るに足らない拙著、『慈しまれるいのち』が、関連本として氏のご著書の欄に掲載されていたからである。
 拙著には、「いのちを養った料理」の小文が入っていた。畏敬の念を抱く先生のご本の欄だけに、私は身がすくむ思いがした、病弱な息子のいのちを守るべく、考案した拙い料理だからである。しかし、奇(く)しきご縁を感じずにはいられなかった。
 辰巳氏は、食育の観点から興した「大豆一00粒運動」を支える会の会長でもある。その運動を知った時、在職中のある思いが、私の胸に去来した。
 かつて私の仕事は、郷里で三町村にわたる、生活全般の指導や改善を任されていた。その中でも、食生活に関する指導が、大きな比重を占めた。
 地域の素材を生かした料理を、いかにお金をかけずに食卓にのせるか。会津の伝統食を、いかに守っていくか。それらを、大人だけではなく、次世代を担う子どもたちにも、食の認識を高めるべく私は日夜腐心していた。
 その足掛かりとして、私は担当する地域ごとにいくつかのモデルグループを育てる。グループから、地域全体の取り組みとして広げ、やがて子どもたちへ広げるつもりだった。
 グループ活動の経過は順調だった。目を見張るばかりの成果を上げ、県からも表彰された。当時の私は若輩者だったが意気に燃え、生涯を捧げるつもりで労をいとわなかった。
 しかし、それはこころざし半ばで潰えた。転勤命令が下ったのである。運動を展開させようとした矢先だった。
 古い歴史を持つ、会津のような封建的な土地柄では、小さな改善や運動であっても、因習を打破し成果を得るには、十年の歳月を要した。ましてや、町ぐるみとなると、私一人の力では及ぶべくもない。実現には住民の協力が不可欠だからである。こころざし半ばでの転勤は、後ろ髪を引かれる思いであった。
「旬は常にその土地に住む人の生命を生きやすく、守る仕組みになっている」
 と、辰巳氏はご著書の中で述べる。
 ふるさとの自然の恵みをいただくと、心がふっくらし元気が湧くのは、私たちのいのちを育て守ってくれたことを、体が覚えているからであろうか。郷土食も忘れた自分が戻ってきたような、名状しがたい至福に包まれる。辰巳氏が考えるように、故郷の大地で育った新鮮な野菜や山や川、海の幸をいただくことは、私たちの尊いいのちを、生きやすく守ってくれるからに他ならない。
 辰巳氏は、『食といのち』のご著書のなかで、「美味しさっていうのは、いのちを守りやすい」と語り、対談者の小児科医、細谷亮太氏も、「今から子どもたちに、美味しいものを作ることが生きる基本であることを教えないと、日本の食文化の崩壊を食い止められない」と警告を発している。
 私も全く同感であった。私は日本の素晴らしい食文化や、郷土の食文化の素晴らしさを、子どもたちにもぜひ伝えたいと考えてきたからだ。子どもたちが成長した後、心安らぐ郷土料理や、美味な母の味を成長過程で認識させるために、野菜を育てる「一株運動」を子どもたちに展開させるのが、私のささやかな夢だったからである。
 いのちあるものを、心を尽くして育て料理することは、音楽が人の心を癒し、力をくれたように大層生きやすくなろう。とりわけ子供たちが大人になった時、生きる力を育むばかりか、いのちへの眼差しが、自ずと違うはずだからである。
 在職中、子どもたちへの「食育」まで至らなかった私は、せめて私だけでも、ふるさとの郷土料理を作り続け、守っていきたいと思わずにはいられないのである。

 大河ドラマ「八重の桜」を毎回観ているせいか、今年ほど望郷の念にかられた年はない。おかげで、久方ぶりに故郷の食文化と、歴史をじっくりおさらいする機会を得る。
 テレビに映る故郷の美しく豊かな自然と、鶴ヶ城などの史跡を目の当たりにするたびに、戊辰戦争の興亡さえも、つい先日の出来事のように思われてならない。