山城の観音寺
          早藤貞二

 奈良へ行く途中の田辺で、私は電車を降りた。十一面観音を見に観音寺を訪れようというわけである。駅から二キロばかりあり、雨も降っていたのでタクシーを頼んだ。
 低い丘陵が連なる、冬枯れの田野の中を車は走った。竹藪の多いところで、それが霧雨の中で白く煙って見えた。
 集落を二つばかり越えたところで、車は右に折れ、丘陵地の間に入っていった。低い桜並木をぬけると、山陰にひっそりと建っているお堂が見えた。観音寺であった。
 庫裏に入って拝観をお願いすると、おかみさんが愛想よく応じてくださった。お堂の前には古い樹齢を思わせる木立があり、枝に白い雨滴が輝いていた。池には緋鯉(ひごい)が二、三十匹も泳いでいた。
 住職さんが見え、私をお堂へ招き入れてくださった。雨のせいか、中はうす暗い。お経をあげた後、お寺の説明をしてくださった。
 天武天皇の勅願寺で「普賢寺」という。聖武天皇の時代に良弁が再興して、天平十六年(七四四)に、十一面観音を大御堂に、普賢菩薩を小御堂に祀(まつ)ったとのことであった。
 説明を終わると、住職さんは厨子の扉を開け、蛍光灯をつけてくださった。等身大の十一面観音さまが静かに浮かびあがってきた。木心乾漆造の代表的な天平彫刻の一つに数えられるものだそうで、国宝である。顔から胸、腹部にかけては、色が剥落し、下地の漆が黒光りして、観音さまの古い歴史がしのばれた。
 頭上の化仏や肩から腕、指先にかけては、天衣や宝瓶、蓮華とともに、まばゆいばかりの金が残され、往時の神々しさをとどめていた。
 しっかり眼を開き、口を力強く結んだお顔つきは、秀麗なまつ毛や鼻すじとともに、若々しい青年の内にこもった気迫を感じさせた。いつか見た薬師寺東院堂の聖観音像にどこか似ていた。
 村人たちは、この力のこもった、しかも落ち着いて何一つ動じることのない観音の眼に、こころの救いを求め、収穫の豊穣(ほうじょう)を祈ったことであろう。
 それは、多くの堂塔が幾度も火炎に包まれ、破壊されても、観音さまだけがほとんど無傷のまま守られ、大事に残されていることでも、うなずかされることである。
 天衣の線が流れるように美しい。いつまで見ていても飽きない観音さまだが、私ひとりのために待っていてくださる住職さんに気がついて、私はお礼をいい、もう一度手を合わせた。扉は静かに閉じられた。
 お堂の左手にかなり急な石段があり、それを上ると、古い社(やしろ)があった。御霊神社といい、継体天皇が祀られているとのことであった。
 私のいま住んでいる瀬田川のほとりにも、御霊神社という古社がある。壬申の乱で敗死された大友皇子の御霊(みたま)を鎮めるために建てられたものと伝えられ、すぐ近くに、国の史跡に指定されている「近江国衙跡」がある。
 継体天皇も近江に深いつながりをもっておられる。私の生まれ育った湖西の安曇川(合併してできた町名で、すぐ北の方に、比良の水を集めて琵琶湖に注ぐ、県下第二の安曇川が流れている)に、天皇の父の彦主人王(ひこうしおう)の御陵があるからである。
 そこは比良連山の北につらなる小高い丘陵地で、湖西平野の広がりと琵琶湖の茫洋とした眺めを眼下におさめることができる。
 彦主人王と越前の振媛(ふりひめ)との間に生まれられたのが継体天皇である。
 記紀によれば、大和の王権が危うくなったので、応神五世の孫にあたる継体天皇が朝廷に迎えられた。しかし、即位後二十年も大和に入れず、天皇は河内や山城の地に宮を移されていたという。 
 筒城(つづき)の宮跡が、この観音寺に近い丘の上にあるそうだ。継体天皇の擁立に反対する勢力が根強く残っていたことがわかる。
 ようやく大和(磐余玉穂宮)へ入った天皇の政治も、安定したものではなかったらしい。「日本天皇、太子、皇子はともになくなった」と、朝鮮の史書に述べられているように、外交の失敗や、豪族の反乱が相つぎ、天皇一族は空しく世を去られたものと思われる。天皇の無念のこころが、いまに伝わってくるようであった。
 その後の政権が、継体天皇一族の怨霊を鎮めるために、奈良の都に近いこの丘陵の一角に建てたのが御霊神社なのであろう。
 私は、国宝の十一面観音を拝観したいために観音寺を訪れたのであるが、意外なところで、なつかしい幼友達に出会ったような気持ちになった。
 雨模様のどんよりした田舎道を歩きながら、私は、観音寺十一面観音の、大きく見開いた眼と、力強く口を結んだ若者の表情は、もしかして継体天皇のそれではなかったか、と思った。  
(『ひめすいれん』より)