夢の色             
               柏木亜希


 最近見た夢の中で印象深かったものがある。
 富士山の頂上近くに立ち、下方を見下ろしていた。風が吹いて吹雪いているようだったが寒くはない。日の光もあり、光景が七色の雲母(うんも)越しに見るように虹色ににじむ。横なぐりに飛んでいる雪かと見えたのは光の粒らしい。
 このとき私が感じたのは、
『ここは私のいるべき場所ではない。人やゴミ、苦悩のある下の世界にまだ私は居るべきなのだ……』
 と、そんなことだった。あの七色に空が引きちぎれたような風の色は、そこが異界だったことを印象づけた。
 たった、それだけの夢だったが、柳田國男が記した隠(かく)り世に行って帰ってきたような、強烈な存在感があった。いったい私は何をしにあの場所へ行ったのだろう。
 『遠野物語』にも出てくるマヨイガ(迷い家)も、案外、おとぎ話だとはいえないかもしれない。富士山頂にマヨイガがあるのなら今度行ってみたいが、帰ってこられるかわからない。

 ところで、この間の台風のときに、ビルと山手線の高架から立ちあがるような虹を見た。大きな釣竿を空に立てかけたようでもあり、離れた場所とこちらの場所をつなぐシャトルの滑走路にも思えた。見上げた空に唐突にこれを見つけたのである。あわてて写真を撮った。虹が、海の中の魚のように空の端へ逃げていかないうちに、カメラの中に捕まえておきたかったのだ。
 虹は、その唐突さゆえに、幸運のシンボルとされている部分もあるかもしれない。毎日出ていたら、人々はありがたがりもしないから。だが、本当は虹はいつも空にあるのに人間にはときどきしか見られないのでは? と考えてしまった。いつもはビルとビルの間や山の木の影や、地下鉄の下水道の暗い穴の中に、好んで隠れているのではと、夢想してみる。太陽や月みたいにいつも見えていては、人がびっくりしないでしょう? との虹の声もあろう。本来、闇も光のひとつである。闇を強い力で叩けばたちまち、色や光がこぼれてくると表現しようか。光の振動数の違いが色なのだから。
 と、すると、私の見た富士の山の七色の光景も実はいつも身近に存在するのかもしれない。物語の中のマヨイガも、木立の元の小さな虫の巣と同じに人間が気づかずに通り過ぎているだけならば……。
 もっと、自分のいる世界をゆっくりじっくり観察してみると、かくれん坊をしている小さな虹を見つけられるかもしれない。
 たとえば本の一枚のページの裏と表、一ページめと二ページめ間に、本の隠り世の扉があり、そこから文中の人物のかいだ花の香りがこぼれてくることもあろう。

 花屋をのぞけば、花びらと花びらをいっしょけんめい縫い合わせてリンドウの花のフォルムを作って整えている、小さなリンドウの精だっているかもしれない。花屋のリンドウはいきなり地面からそのままの姿で生えてきたわけではない。小さな葉の間からけんめいに茎を伸ばし、太陽と水を吸って葉をふるわせつぼみをつけた。長い着実な生長の時を重ねて咲き、人々の前に出てきたのだ。
 そこにはリンドウ自身の思いが宿っている。花は、元々無形な『生命』の思いの結晶だ。葉一枚細胞ひとつ残らず、何となく出来たのではない。そして、人のことばにも、たくさんの祈りや願望が込められた花のようなものかもしれない。
 文章や会話の意味は、個々別の読み手の感情と体験のフィルターを通され翻訳される。ことばの意味にとらわれて、そのことばの発せられた土壌である心の状態までは想像するのは、超能力でもない限りむずかしい。
 ことばには、それ自体に生命があるという、古い考え方がある。古代では、ことばをつづるという行為は、ことばの中の言霊(ことだま)を順序だてて重ね縛ることにより、願望を現実化する実用的な祈祷に近かったのだろう。
 当然、ひとつのことばがたくさん集まり連なった文章には、より強く複雑な命が宿る。
 いつしかそれは、手のひらから羽ばたく蝶のように自らが動きだしそうだ。

 そうすると、人間一人一人もだれかの祈りや思いの込められた、生きる書物に見えてくる。いや、生命自体が夢で動かされているのか。これでは、どうやら私自身が、マヨイガになってしまう。
 雲を飲み月光をあびる山の頂は、まだ私には時期尚早だ。